その日、凪はいつものように朔夜から蛮骨へ宛てた文を運んでいた。
彼方まで続く広大な森林を眼下に、気流を掴んで大空を渡る。
しばらくは何事もなく飛行が続いていたが、東の空が青みを帯びる頃、雲行きが怪しくなってきた。
遠くの方で雷が轟きはじめたのを受け、凪は高度を下げて森の中を羽ばたいた。
陽もそろそろ没するだろう。今日のところはこの辺りで寝床を探そうと周囲を飛んでいると、突如、横合いから黒い塊が勢いよく突っ込んできた。
すんでのところで回避し、塊の通り抜けていった方向を確認する。
そこには大鷲おおわしがいた。体格はゆうに凪の三倍ほどもある。
その大鷲はなぜかかなり気が立っている様子で、凪に再び狙いを定めて突撃してきた。
二度目の突進もかわし、凪はやむなく高度を上げた。まともにやり合ってもこちらに勝ち目がないのは目に見えている。
樹上に出るとすでに大粒の雨が降り注いでいた。だが、大鷲は構わず追ってくる。
上空で幾度かの体当たりを避け続けるうちに、雷雲の圏内に入ってしまった。
早く森の中へ戻らなければと方向転換した瞬間、すぐ近くに雷が落ちる。
まばゆい光と轟音に体を揺さぶられ、一瞬前後不覚になったところへ大鷲の当て身がまともに入った。
抵抗する間もなく、頭から真っ逆さまに落ちる。
木の枝にぶつかりながら、下へ下へ。
いよいよ地面が迫り、凪は自分の終わりを覚悟した。
が、予期していた衝撃はなかった。
地面より存外柔らかい感触が隼の体を受け止める。
「驚いた」
言葉のわりにさして驚いた風でもない声音が聞こえた。低い、男の声だ。
薄目を開けると暗がりの中に深紅の瞳が見えた。
瞳はすぐに逸らされ、凪にとどめを刺そうと高速で飛来する大鷲に向けられる。
一瞬の逡巡の後、彼はついと右手を掲げた。次の瞬間、威力はないが質量の高い風が大鷲に真正面から浴びせられ、飛来を阻む。
その一撃で大鷲は戦意を削がれたようだった。そして、対峙している相手が誰なのかを認識した途端、慌てて無抵抗の意を示した。
「これには言って聞かせておく。ここは下がれ」
男の声が雷雨の中でもはっきり響いた。大鷲は即座に飛び立ち、その場を離れていった。
「さて」
凪を再び深い紅が覗き込んだ。人間と変わらぬ顔立ちだが、その瞳の色がそうではないことを物語っている。
何にせよ、見知らぬ者に、それも人外の者に体を預けている状態はこの上なく危険だ。
凪は男の腕から体を起こそうとしたが、とたんに全身が痛んだ。弱々しい声がくちばしから漏れる。
せめてもの抵抗と男の指に噛み付く。猛禽もうきんの嘴はちぎれるほど痛いはずなのだが、男は眉一つ動かさなかった。
「この辺りの鳥ではないな」
噛まれていることなど知らぬ存ぜぬといった風情で凪を観察している。
そのうちに勢いを増してきた雨を受けて、彼は空を見上げた。
「夜中のうちには止むか。川を見回るのは一度戻ってからでも差し支えないだろう」
呟いて、隼を抱えたままきびすを返す。
抵抗の意味がまるで無いことに諦念し、凪は噛んでいた嘴を放した。すると男の手がなだめるように翼を軽く撫でる。その場所からじんわりとぬくみが広がるような気がした。
男の歩に合わせて腕に揺られるうち、いつの間にか凪は吸い込まれるように眠りに落ちていた。

凪が目を覚ましたのは、亥の刻も半ばを過ぎた頃だった。
雨の音が遠くに聞こえるので、どこか屋根の下にいることだけはわかった。
視線を巡らせて確認すると、どうやら巨木の枝と枝の間に器用にしつらえられた空間であるらしい。部屋と呼ぶには簡素で、寝床を多少拡張した程度の広さだった。
ここはどこだろう。
考えていると、入り口に当たる部分の布が開いて、先ほどの男が姿を見せた。
「起きたか」
全身がしとどに濡れている様子から、雨の中を長らく歩き回ってきたのだと察せられる。そういえば先ほど、川がどうのと言っていた気がするが、それと関係あるのだろうか。
男は内部に踏み入る前に自分の周囲へ風を起こした。濡れていた髪や衣服が瞬時に乾く。
凪は起き上がろうとしたが、全身が引きつるように痛んで叶わなかった。
「まだ動くな。骨は折れていないし内腑も無事だが、打ち身でとても飛べんぞ」
男は凪の目の前に丸々とした野鼠の亡骸なきがらを置き、「食べれるなら食べろ」と告げた。
「巣が水没して命を落としたようだ。そのまま打ち捨てられるよりは、お前のかてになる方が有意だろう」
そして自分は手にしていた薬草らしきものと、寝床に保管していた木の実や何かの粉などを取り出して、隅に置かれた薬研やげんに向かう。
そこに至って、凪は男の背に巨大な翼があることに気付いた。
試しに、鳥や獣同士にしか解すことのできない言葉を発してみる。
『助けて頂き感謝いたします。失礼ですが、あなたは何者なのですか』
「俺は鴉天狗。名は襲という」
鳥語に対して男は当たり前のように、手短に返してきた。言葉は人間のものだが、不思議と鳥語として凪にも聞き取れる。
彼の答えに凪は衝撃を受けた。
『か……鴉天狗?』
それは翼を有するものであれば誰もが本能的に畏怖する存在の名だった。
その身に強大な妖力と神通力を宿し、風を自在に操る。そして、あらゆる鳥類を使役することができるという。
だが、こんな場所にいるとは初耳だ。風の噂で、鴉天狗はどこか北方の隠れ里に集団で生活しているから、そこより南であるここらの鳥類が一生のうちで出会う可能性はかなり低いと聞いたことがある。
『もしや、この辺りが噂に聞く隠れ里なのですか』
「隠れ里? ……ああ」
襲は一瞬だけ怪訝けげんな色をにじませたが、すぐに首を振った。
「そうではない。俺は里を抜けた身でな。一人で生きている」
そう語る襲の瞳は感情の起伏が乏しかった。
「お前はこの辺りの鳥ではないようだが、どこから来た。先の大鷲は雛を抱えていてな、それを刺激されて怒っていたのだ」
腹を空かせて獲物を捕らえようとしていたのなら襲も手出しはしなかったが、どうやら一方的な私怨のもつれに見えたので仲裁に入ったのだという。
凪はああと得心した。今夜の寝床を探してうろうろするうちに、知らず巣の横を何度も行ったりきたりしてしまったのだろう。雛を抱えていたのなら、それは気が逆立っても仕方ない。おかげで死にそうな目に遭ってしまった。
『私はここより南東から参りました。凪と申します』
「ほう、名があるのか」
『はい、主より頂戴しました』
襲は少しだけ興味をもった風情で凪を見た。
「人間に飼われているのか」
『はい』
凪は思い出す。そういえば睡骨と初めて出会ったときも、怪我をしているところを助けられたのだった。命を拾うのはこれで二度目ということになる。もしかすると自分はけっこう危ない飛び方をしているのかもしれない。
凪は目の前に置かれた野鼠を口にした。
音に聞く鴉天狗が与えてくれたのだ、無駄にするわけにはいかない。
襲はそれ以上何かを話しかけてくることもなく、黙々と薬研を動かし続けた。
凪も腹ごしらえを終えると、襲に礼を言って再び眠りの淵へ旅立った。

翌日、起き上がれるようにはなったが、全身の引きつるような痛みは消えておらず、飛行はまだ無理な状態だった。
どうやら大鷲とぶつかった際、翼を不自然にひねってしまったらしい。
痛みに顔をしかめる凪を抱き上げ、襲は体の要所に力を注ぎ込んだ。徐々に痛みが和らぐ。
「痛みを止めているだけだ、あまり動くな。無理をしても後に響く」
昨夜作っていた薬を水に混ぜて飲まされる。形容しがたい味だったが、治癒力を高める効果があると聞き、ぐっとこらえて喉に流し込んだ。
「あの大鷲くらいの大きさならば、一息に完治させることも可能なのだがな。体が小さいほど、送り込む力の加減が難しくなる」
襲が凪の羽を撫でながら言った。加減を誤ると小さな生き物は簡単に壊れてしまうので、時間をかけて治さねばならない。
『お手数をおかけして申し訳ありません』
凪は窓にあたる部分から空を見上げた。雨はすっかり上がり、さわやかな晴天が広がっている。
早く飛べるようにならなければ。自分は今、大事な任務中なのだ。朔夜の文を蛮骨に届けるという――。
『――――』
凪が固まったのを気配で察したのか、襲が首を傾けた。
凪はきょろきょろと周囲を見回した。自分の下を見下ろしたり、翼を持ち上げてその内側を確認したり。
「どうかしたか」
羽毛に覆われているはずの顔面がざっと青ざめていくのを、襲は確かに見た。
『ふ、文がありません!』
「文?」
『わ、私が主たちより預かった、大事な文です。それを届ける最中だったのです。足にくくっていたはずなのです』
みるみるうちに凪の全身が震え、目に涙が溜まっていく。
『襲どの、文を見ませなんだか!』
詰め寄られた襲は無言で思い返すが、さっぱり記憶に無い。
凪は襲の膝から飛び降り、一目散に入り口を目指した。しかし全身に痛みが走って転倒してしまう。
「動くなと言ったそばから」
襲が拾い上げるが、凪はばたばたと翼を羽ばたかせようと躍起になった。
『あれは私の命より重いのです! 探しに行かなければ……!』
腕から抜け出して這うように戸口を目指す隼に、襲はひとつ嘆息した。
「俺が探してこよう」
凪がぎょっと天狗を振り仰ぐ。
『えっ、いっ、いえ! それはさすがに…!』
助けてもらったあげく治療までしてもらっているのだ。この期に及んで探し物までさせてしまったら、全鳥類から袋叩きにされる。
しかし襲は有無をいわさず、凪を捕まえて寝床に押し込めた。手を軽く払うと寝床を中心に小さな結界が構築される。
『あっ、出れない! そんな!』
「いいな、寝ていろ」
目をすがめて言い放つと、天狗は入り口から飛び立っていってしまった。
凪はなすすべもなく結界の中に取り残された。

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