一夜明け。
宿を後にした三人は、宿場街に立ち並ぶ市の賑わいの中をぶらつきつつ町の出口を目指していたのだが。
その途中、見覚えのある人物が露店の店先で何事か話し込んでいる場面に出くわした。同時に向こうもこちらに気付いて「あっ」と声を上げる。
「あれ、昨日の」
「盗っ人」
「覗き魔」
「ちょ、ちょっと!」
往来のど真ん中で指差され、道行く人々に怪訝な目を向けられた翔馬は慌てて三人に駆け寄った。
「その呼び方は勘弁してくださいっ……」
「だって事実だろ」
蛮骨が軽蔑の眼差しを向けると、翔馬は返す言葉も無いようで気まずげに眉尻を下げる。
「おや、昨日のお三方じゃありませんか」
翔馬が話し込んでいた人物が呼びかけてきた。見ればこちらも、あの古物商である。
地べたに筵を敷き傘を斜めに差しかけただけの簡易な露店を覗いてみるが、扱っている品は昨日とさほど変わり映えが無い。商人も昨日の今日で売り込むつもりは無いようで、代わりに翔馬を疲れた様子で示した。
「聞いてくださいよ。昨日話した上等な絹があるでしょ? この旦那ときたら、あれを何とか買い戻せないかってしつこくて。そんなこと言われても、もうご領主様のお手の内ですからね」
こればっかりは無理ですよ、首を振る商人に翔馬はすがるように食い下がる。
「な、何とかならないだろうか……! あなたに売った際に得た銭は、手を付けずそのままにしてるんだ。全部返すから……」
あのねぇ、と商人の声音にわずかな苛立ちが含まれた。
「私もあの時、本当にいいのか確認したでしょ。それでも買い取ってくれと仰ったのは旦那ですよ。もう何年も経ってるし、手元に戻したいんならご自分で領主様に交渉なさることだ。私が行ったんじゃ、下手すりゃこの先商売できなくなっちまいます」
突き放すように言われた翔馬は困り果てた様子で立ち尽くしていたが、やがて商人へ小さく礼を言うととぼとぼとその場を離れていった。
その背を横目で見送り、商人はふうと嘆息する。
「朝からお見苦しいとこ見せてすみませんねぇ。どこで知ったものか、私がここに店を出すと突き止めて開店前からあの調子です。……昨日あの後、揉めましたか」
「まあ、お察しの通りだ。そちらさんも大変だなぁ」
半笑いで肩をすくめる蛮骨に続いて煉骨が問う。
「参考までに訊くが、領主にはいくらで売れたんだ」
商人は気を取り直したようにふふ、と笑むと口の横に手を立てて声を潜めた。
「三十貫です」
「さっ……!?」
三人は開いた口が塞がらない。いくら珍しいとはいえ、布切れ一枚にそんな大枚をはたくとは。
否、下々の自分たちに想像がつかないだけで、金持ちからすれば安い買い物なのだろうか。何にせよ住む世界が違う。
古物商と別れた三人は再び町の出口を目指し始めたが、しばらく行くと堀状に整備された川端に座り込んでいる翔馬を認めた。
何となく、今にも身投げしかねないどんよりした空気が漂っている。
自分たちには関係がないので、三人はそ知らぬ振りで通り過ぎようとした。
のだが、まさに彼らが背後に差し掛かったその時、翔馬が「よし!」と叫んで勢いよく立ち上がったものだから、一番近くを歩いていた霧骨が仰天して飛び上がった。
「わっ」
その拍子に傍の壁に立てかけられていた竹竿がばたばたと倒れ、小柄な体躯が降り注ぐ竹竿の下に埋もれてしまう。
「あーっ、何やってんだ」
蛮骨と煉骨が文句を垂れながら竹竿をどかす。大きな音に驚いて振り向いた翔馬が目を瞬いた。
「あっ、皆さん。また会いましたね」
竹竿の下から這い出てきた霧骨を見て「何をしてるんですか」と首を傾げる。
「誰のせいだと……」
霧骨は恨めしげに翔馬を見上げたが、対する彼の方は何か勘違いをしたようだった。
「もしかして、俺を気にして追いかけて……」
「違えわ」
三人は異口同音に否定する。
霧骨が忌々しげに全身の埃を払い落としている間、蛮骨は仕方なしに翔馬へ問いかけた。
「で? 何か意気込んでたようだが、どうするか決めたのか」
翔馬の面持ちがわずかに硬くなる。
「領主様のところへ行って何とか絹を――羽衣を返していただけないか、お願いしてみようかと」
「おいおい、本気かよ」
「ほ、本気です……!」
そう言いつつも声が掠れている。
どう考えても薄汚れた百姓一人に交渉が叶う相手ではない。門前払いで相手にされぬだけならまだ良し、不届き者として罰される未来も容易く想像することができた。
「あの商人がいくらで売ったか知ってるか? 三十貫だぞ、三十貫」
三本指を立てる蛮骨に、翔馬の顔から血の気が引いていく。
とてもしがない農民がぽんと出せる額ではなく、羽衣を売って得た銭をすべて差し出しても到底足りなかった。買い戻すとなればさらに高い額を要求されるだろう。
煉骨が顎に指を当てた。
「買い戻すってのは現実的じゃねえな。残る選択肢はもっと珍しいもんと物々交換か……いっそ盗みに入るか」
「ぬっ、盗みはもうしません……」
翔馬が恥じ入った様子で激しく頭を振るのを、蛮骨は疑わしげに見やった。
今は反省しているようだが、そもそも他人の帰宅手段を盗み、あまつさえ見つからないようにと勝手に売り払った男である。恋は盲目だのと言うが、それにしたって身勝手な話だ。商人の口から漏れていなければ、おそらく墓まで持っていく秘密になっていただろう。
翔馬は胸中に灯った火があっという間に心許なくなったようで、力なく肩を落とした。何とか金を工面できないか、領主に直談判する方法はないかとぶつぶつ自問自答しているが、一介の百姓にぱっと良案が思いつけば苦労はない。
彼は万事休した面持ちで三人に迫った。
「お、お願いします、どうかお知恵を……一緒に考えて頂けませんか」
手を合わせて頼み込む翔馬に、蛮骨たちは煩わしげな態度を隠す気もなく唸る。
こちらとて、そういつまでも油を売っていられない。必要以上に仲間たちを待たせる事になれば、どんな嫌味を言われることか。
「せいぜい上手くやんな」
当然のように見捨てて行こうとする三人だったが、翔馬は半泣きで追いすがってくる。
かじりつくように懇願しては周囲をうろうろする男に、耐えかねた蛮骨がくわっと牙を剥いた。
「だああ! しつけえ!」
「だって事情をご存知なのは皆さんだけなんです…! 俺一人じゃどうにもならない、このままじゃ八雲に嫌われてしまいます! あれからずっと、口もきいてもらえないんですよぉ……!」
「てめえで撒いた種だろうが!」
霧骨がいらなく根掘り葉掘り事情を聞いてやったものだから、すっかり頼られる口実になっている。はなはだ迷惑な事この上ない。
苛立ちも露わに翔馬を引き剥がし、蛮骨はしかめ面を崩さずごそごそと懐を探る。
取り出された小さな竹の笛を認めた霧骨がわずかに目を見開いた。
「あ? それ、大兄貴が持ってたのか」
「別れる前、睡骨に渡されたんだ。そっちで必要になる気がするって」
見事に予想が的中している。これが虫の知らせというやつか。
蛮骨は投げやりに笛を長くひと吹きした。憮然とした面持ちをしつこい百姓に向ける。
「羽衣買い戻すのは無理でも、情報買う金くらいあるだろ。領主の情報なぞ持ってるか知らねえけどな」
そう話している間に、傍らの木に一羽の鴉が飛来した。
呼び出しを受けた襲は人目が無いのを確認して人身に転じると、顔馴染みの三人とその横でおっかなびっくりしている男を交互に見る。
彼が何か言う前に、蛮骨は一方的に告げた。
「こいつに情報売ってくれ。じゃ、あとは二人でごゆっくり」
「……」
手短に言って返事も待たず立ち去ろうとする蛮骨の襟首を、襲が片手を伸ばしてむんずと捉えた。大鉾ごと元の位置に引き戻された蛮骨はぐえっと呻いて眉を吊り上げる。
「何だよ」
「全く状況が呑み込めん。それと、俺の客はあくまでお前たちだ。勝手に他人へ斡旋するな」
「は? あんただって客が増えるのは良いことだろ」
襟元を直しながら抗議する蛮骨を、襲の双眸が見下ろした。頭一つ以上の身長差があるため自然な仕草としてそうなっているだけなのだが、弟分たちはここまであからさまな見下ろし方をしてこないので、すでにささくれ立っている蛮骨の神経がさらに逆撫でされる。
そんな七人隊首領の心中を慮ることもなく、鴉天狗はじつに淡々と言葉を返す。
「客なら間に合っている。それよりも、こちらの意図せんところで名が広まる方が厄介だ」
「知ったことか、こっちとしちゃむしろ感謝してほしいくれぇ――」
「まだ言うか」
捻くれた返しばかりする蛮骨の額を、襲はほんの軽い所作で指弾した。傍目には木の葉の一枚も揺らぐか否かという程度の、お遊びのような小突きにしか見えない。
にもかかわらず蛮竜ひとつ分ほども後方に弾き飛ばされ、思いがけぬ衝撃に蛮骨は声もなく額を押さえた。
しばらくして立ち直ってくるとその口中から「くそ天狗」だの「しちめんどくせえ鴉野郎」だのと恨み言が溢れ出すも、当の鴉天狗には涼しい顔で聞き流される。
己らの首領が赤子同然にいなされる様を見てしまった煉骨と霧骨は、次いで襲の眼差しがこちらに向けられたのを受け、にこやかな笑みを浮かべて両手を顔の高さに上げた。
斯くして。
翔馬はあくまでも蛮骨たちを経由して天狗から情報を買うこととなり、その都合上、三人は事が済むまで彼に付き合わなければならぬ身となってしまった。蛮骨は安直に鴉天狗を呼び出してしまったことを激しく後悔したが、もはや後の祭りである。
往来を外れささやかな休息所として設けられている東屋に腰を落ち着け、簡単な経緯を把握した情報屋は、かねてより抱いていた疑問を蛮骨たちへとぶつけた。
「お前たちは何事も無く目的地へ行けぬのか」
「いや、俺らは本当にただ通りすがっただけで……」
天女がいるから泉の傍を通ったのでも、翔馬と再会するためにこの町へ泊まったのでもない。すべて呼んでもいないのに向こうからやって来るのだ。
こちらも巻き込まれて迷惑していると言い募る蛮骨の言は、もう十分だとばかりに片手を上げて遮られる。むむ、と蛮骨は眉間に皴を刻み、むかつきの矛先を変えるように翔馬を睨んだ。
「っつーかお前、その嘘の下手さで、今までよくばれずにいたな」
これには煉骨と霧骨も深く頷く。
昨日今日と少し会話を交わしただけだが、翔馬が非常に分かりやすい男であることは明白だった。
偽りを口にする時は目を逸らしがちで声が上擦るし、都合の悪いことを聞かれると返答に一拍詰まる。土台、嘘をつくのが下手すぎる。
すると我が身のことながら翔馬も同意を示した。
「自分でも意外なんです。小さい頃から嘘のつけないたちで、ちょっとした出任せもすぐばれてしまうのに」
「……それは、八雲殿とやらが天人だからかもしれん」
腕を組んだ襲が空の彼方へ視線を投じる。
「俺も天界には行ったことが無いので聞きかじっただけの知識だが。天界はその大半を浄なるもので構成されているため、穢れや不実な事柄とは無縁なのだそうだ」
つまり、八雲は翔馬と出会うまで「虚偽」や「欺瞞」といった概念にほとんど触れぬまま生きてきたのだろう。だから翔馬の下手な嘘でさえ見抜けなかった。
困っているところに手を差し伸べてくれた恩人が、よもや羽衣を盗んだ張本人とは考えもしなかったという事だ。下手をすると羽衣が「盗まれた」という可能性すら、今になって初めて意識したのかもしれない。
「あんたでも行ったことねえって、天界ってのは空飛べりゃ簡単に行けるわけじゃねえのか?」
煉骨の素朴な問いかけに、襲は簡易的な――彼にとっては簡易的な説明を口にした。
「物理的にいえば天界が空の上にあるのは確かだが、あれも異界の一つで、現世との境には安易に交わらぬよう仕掛けが幾重も施されている。仮にそれを抜けたところで、即座に異物として天人たちに認知され排除対象となるらしい。そもそも俺のような妖では、そのような清浄の地に足を踏み入れるだけでも無事では済まぬだろうから、行こうと考えたことも無い。あるいは、通力で結界を張り妖力を相殺することで一時的に立ち入るくらいなら可能になるかもしれんが、そうまでして――」
煉骨以外の頭上に湯気が立ち昇り始めたのを認め、襲は説明を打ち切った。
「……話を戻すが、盗人覗き魔詐欺師殿は」
「翔馬です」
「翔馬殿は、羽衣を手元に戻したいということで良いのか」
確認された翔馬が両目に力を込めて大きく頷く。
「羽衣を買い取った領主とは顔見知りだ。幾度か仕事をしたことがある」
人間たちはぽかんと口を開いた。あまりにしれっと言われたので一瞬、聞き違いかと疑う。
「……いや、それを早く言えよ」
据わった目をする蛮骨に襲はしばし無言で瞬いた後、ゆるゆると明後日の方向へ視線を逸らした。こほんと一つ咳払いし、
「確かに珍しい品には目が無い男だ。一度入手したものは、金を積まれたところでそうそう手放さんだろう」
「そ、そうですか……」
翔馬は頭を垂れる。金が用意できるかといえばそうではないのだが、金銭で解決するなら最も平明な手段ではあった。
思いつめる翔馬を眺めながら、「しかし」と表情に乏しい情報屋はさらに続ける。
「あれは人一倍に臆病なところがある。……『いわく付き』となれば、自ら放棄するだろうな」