出店が連なる中心通りから小道に案内され、きもだめし会場との仕切りとなる竹造りの簡素な門を潜ると、長い登り坂が現れた。
坂の左右は鬱蒼と木々に挟まれ、さながら隧道のごとく頭上を枝葉が覆う。わずかな月明かりが届くばかりの道は、陰と影が重なって少し先の行手すらも定かではない。
一度深呼吸をしてからゆっくりと歩き出した睡骨は、ちらと手元に目を落とした。
開始地点にて、預けた持ち物と引き換えに渡されたのは提灯が一つのみ。それも大した明るさはなく、せいぜいが足元を照らすに足る程度の光量しかない。道の両脇には不規則な間隔で灯籠が立ち並んでいるものの、灯りが入っているのは数基に一つ、それすらも微風にかそけく揺れている。
「本物の妖怪に比べればなんてことないだろう」と蛮骨は言っていたが、そういう話ではない。七人隊のもとへ頻繁に顔を見せる小妖怪たちや襲は歴とした妖怪だが、(少なくとも睡骨から見る分には)性悪ではないし、話のわかる者たちだ。彼らに比すれば蛮骨の方がよほど人でなしではないかと、睡骨は今し方その身をもって思い知った。
人気のない緩やかな坂を一人登っていく。響くのは木々の葉擦れと己の足音ばかり。思考を明後日に向けていなければ、縮み上がってしまいそうだ。
まばらな灯籠の灯りを目印に、一歩一歩踏みしめるように進む。
息が詰まるような道行きだったが、暗くて視界に乏しい他には特段なにも起こらぬまま、睡骨は坂の中腹地点まで無事に辿り着くことができた。
肩越しに、来し方を振り返る。
こんなものか。
目玉だ売りだと言ったとて、所詮は小さな村の催しなのだ。もしかしたら案外、ずっとこんな調子なのではなかろうか。自分は勝手に想像を膨らませて、必要以上に怖がっていただけかもしれない。
がさっ。
すぐ傍らの茂みが揺れた。体ごと心臓が跳ね上がり、ぎこちなくそちらを見る。
すると一瞬、視界の端に仄かな光が過ぎった。はっとした時にはもう消えており、気のせいかと思っていると、また別の方向に光が生じる。今度はしっかり眼に捉えたそれは、空中を揺らめく小さな火の玉だった。
火は左右へゆらゆらと波間を漂うように音もなく揺れながら、少しずつこちらに近付いてくる。そうして次第に二つ、三つと分裂し、同じように揺れ始める。揺れては分かれを繰り返し、無数の火の玉が木々の間で踊った。
「……」
ごくりと唾を飲み、睡骨は火の玉から無理やり視線を外して足早に登坂を再開した。
少し驚いたが、あのくらいならまだ平気だ。火の玉に見立てた何かを釣り竿で吊るすなどしているのだろう。あの程度では子供騙しにもならない。これで「地獄」とは片腹痛い。
ふ、と鼻で笑った瞬間、足元の地面がずるっとずれた。
「びゃっ」
均衡を崩し派手に転ぶ。
「な、なんだっ……!?」
幸い、地面は枯葉で分厚く覆われており、怪我はない。
四つん這いの姿勢で周囲を見回したと同時、頭の上から大量の細かいものが、巨大な桶をひっくり返したように降り注いできた。呆気に取られた寸の間にそれらは襟や袖の隙間から侵入し、ざわざわと肌の上を蠢き回る。無数の足や毛に素肌をなぞられる感触にぶわっと鳥肌が立った。
「はひぃっ!? ああっ、ひゃあ」
払い除けようと持ち上げた腕が、意に反して再び地面に引き戻された。
「なっ!?」
見れば真下の落ち葉に覆われた地面から灰色の筋張った腕が二本生え出し、凄まじい力でこちらの両手首を掴んで地に縫い留めているではないか。ひくっと息を呑んだ喉の下で手と手の間の落ち葉がせり上がり、その下から湧き出るようにして、血みどろに爛れた男の顔が現れた。
「わあああぁっ!!」
眼球が転がり落ちるほど目を剥き絶叫した睡骨は、引きちぎらんばかりの勢いで腕を振り解いた。
転がるように立ち上がり、がむしゃらに残りの坂道を駆け上がる。登りきる頃には息が上がり、目の中がちかちかと点滅していた。
よたつきながら足を緩め、恐る恐る後ろを振り返る。何もついて来ていない。
「いっ、今っ、のっ…な、んっ……!?」
息苦しさに肩が上下し、舌が空回って言葉にならなかった。心の臓が激しく胸を叩いている。
短い呼吸を繰り返すうち、衣の中に入り込んだままのものが再び蠢いた。
「あああ、いやだ、何だこれっ……!」
ぞわぞわと肌を粟立たせながら衣に手を突っ込み、まとめて掻き出す。毛虫や百足の類に違いないと思っていたのだが、よく見ればただの狗尾草だった。頬を上気させてふるふると打ち震え、腹立ちまぎれに地面へ叩きつけた。
「うう、もう進みたくない……」
頭を抱えひとり懊悩する。
回れ右して出発地点へ駆け戻ることができたらどんなに良いだろう。しかしそのためには今の化け物がいた地点をまた通過せねばならない。何より、大の男が尻尾を巻いて逃げる無様を村人たちが見たら、いい笑い者だ。そして蛮骨には一生、話のねたにされるに違いない。
結局のところ、選べる道など一つしかなかった。
進まぬことにはこの恐怖も永遠に終わらないのだと言い聞かせ、仕方なく足を前へと運ぶ。あれだけ動転しながら、唯一の装備である提灯だけは手放さなかった自分を心中でありったけ褒め称えた。
「い、い、今なら、出てきても、構わないぞ。いや、出てこい、代われ! 代わってくださいどうか!」
藁にすがる思いで、もう一人の自分へと呼びかけてみる。あちらにしてみれば進んで身を明け渡されるなど滅多にない好機だろうに、どういうわけかこういう時に限ってうんともすんとも切り替わる兆しはなかった。
小さな歩幅でおっかなびっくり、探り探り歩き続けていくと、緩やかな坂道は途中でぷっつりと途切れた。灯りを掲げてみると、目の前には急斜面の山肌が立ち塞いでいる。
「行き止まりなのか……?」
ここまで一本道だったと思うのだが、動揺していたために順路を誤ったのだろうか。提灯で照らしながら周囲に目を凝らしていると、やがて少し離れた草地にぽつんと立札が刺さっているのが発見できた。近付いて覗き込めば嫌な具合に墨を滴らせた筆跡で、右手へ行くよう示されている。
立札の先には深い木立が広がり、足元には再び道が延びていた。ここまでのそれなりに舗装されていた坂道とは打って変わり、ほとんど獣道と変わらぬ曲がりくねった細道である。
気を奮い立たせ、睡骨はその道に踏み入った。手入れの入っていない小径は行く手に繊細な枝がいくつも張り出し、それらが身を掠めるたび、細い指に頭や背中を撫でられているようで薄ら寒い心地になる。
途中に何度か、先ほどのものと同じような立札が斜めに立っているのに行き合った。そこに描かれた印が示す方向だけを頼りに少時進み続け、どこをどう曲がって来たものかまったく見当がつかなくなった頃、不意に視界がひらけた。
木立の中にぽっかりと空間が生じている。降り注ぐ青白い月明かりに、わずかに目を細める。
空間の中央には黒く、歪で巨大な塊が鎮座していた。それが大きく傾いだ家屋であると認識するまで、そう時間はかからなかった。
木立から抜け出、数歩、家屋に近付いてみる。
立札が示す通りに来たのだから、ここで何もないわけがない。
板壁が所々剥げ、相当な傷みようであることが夜目にも明らかな朽ち家だった。人が住み暮らせる状態ではない。ひしゃげ、外れかけた窓枠には障子の名残や蜘蛛の巣が薄ぎたなくまとわりつき、幽霊の手のような恰好で垂れ下がっている。
一定の距離を保ったまま外壁に沿って歩いてみると、回り込んだところに入口があった。その横にあの立札が立てられ、無情にも「入れ」と言わんばかりに戸口を指し示している。
何もない、わけがない。
棒立ちで葛藤することしばし。隙あらば遠ざかろうとする足を無理やり前に出す。戸口へ近付くにつれ、到底誰かが住んでいるようには思えぬ荒ら屋の中から微かに
しゃ、しゃ。
と耳に障る音が聞こえてきた。
この金属味をはらんだ特徴的な音から連想できるものなどそう多くはなく、どう楽観的に見積っても嫌な予感しかしない。やっとこさ引き戸に手をかけ、ばくばくと鳴る心臓の音と対峙する。
「いやだ……あああ嫌だ」
誰かが背を押してくれるわけもないのだが、口に出さずにいられない。ひとしきり息を吸っては吐き、生唾を呑み込み、腹を括ってついに、手に力を込めた。
色褪せた引き戸はだいぶ渋く、力を入れてようやく横に滑る。幸い、懸念したほど大きな音は立たなかった。半分開いたところにそろそろと顔の左半分だけ入れ、目だけ動かして様子を窺う。
内部は暗闇だろうと踏んでいたが、奥の方の屋根に大きな穴が空いており、外の仄光が筋となって差し込んでいるのが見えた。青い空気の中を塵や埃がちらちらと光りながら漂っている。
その、光筋のたもとから。
しゃ、しゃ、と音がする。
目を凝らした。
こちらに背を向けうずくまる、白い影がある。小柄な体躯を丸め、身体を前後に揺らしている。一心不乱な動きに合わせ、縮れた白髪が乱れ跳ねる。
歯の根がむず痒くなるような音は、その手元から生じていた。乱れ髪の狭間にちらちらと垣間見える鈍い光。喜ぶべきか悲しむべきか、それは睡骨の連想と寸分違わない。つまるところ、砥石の上を往復する刃物である。
床に伸びた影が動きに合わせて大きく揺らぐ。頭部に二本、奇妙に尖ったものが突き出ている。
壁を向いている異形――睡骨は便宜上、鬼婆と呼ぶことにした──は刃物を研ぐのに夢中で、こちらに気付いているようには見えない。時折ぎひひ、げへへ、と不快な嗤い声を発し、舌なめずりしている。
睡骨は極力音を立てぬよう細心の注意を払い、全身を屋内に滑り込ませた。
入ってすぐの太い柱にくすんだ貼り紙があり、反対側の勝手口から表に抜けるよう記されていた。
手元の提灯を見下ろす。火を消した方が見つかる可能性は下がるだろう。しかしこれが無いと、足元はほとんど見えなくなる。仕方がないので体と袖でできるだけ覆い隠し、壁を伝ったむこう側に見える出口を抜き足差し足で目指し始めた。
暗くて定かではないが、二十歩もあれば辿り着けるだろう。
ほとんど息を止めて、物音を殺して、気配を絶つ。何とか半分まで距離を縮め、鬼婆の真後ろの位置に差し掛かった。このまま奴が振り返りさえしなければ、何事もなく勝手口に辿り着ける。
「ぶぇえっくし!」
家屋全体が揺らぐようなくしゃみが轟いた。次の一歩を踏み出しかけていた睡骨は仰天して身をすくめ、その拍子に、浮かせた片足が無造作に置かれていた盥をわずかに蹴ってしまった。
ごく小さな軽い音と、土間と盥の底が擦れる音。平時であれば気付きもしない微かな音が、その時その空間では、明らかな異音としてやけに大きく響いた。
鼻を啜る仕草とともに、ゆらりと鬼婆が振り向く。
しかしその時にはすでに、睡骨の姿は勝手口まで一っ飛びに移動しており、建て付けの悪い引き戸を齧り付くようにしてこじ開けていた。隙間ができるや体を捩じ込んで外に抜け出し、渾身の力でぴしゃりと叩き閉める。その一連の動きには五秒も要さなかっただろう。
ひひひひひ、という引きつった嗤い声と乱暴な足音が板戸を隔てたすぐ向こうに迫り、睡骨は怖気立った。間を置かず内側からけたたましく戸が叩かれ、戸板が激しく揺れる。だが無理やり開閉したことでどこかが外れてしまったらしく、押そうが引こうがびくともしないようだった。
つまるところ壊してしまったわけだが、今はそんなことにかまける余裕などあるはずもなく、睡骨は朽ち家に背を向け脱兎のごとく逃げ出した。
「あああああ後で謝るから許してくれ――!」
小屋の出口から新たに始まった順路を、無我夢中で駆け抜ける。
途中で脇の茂みから次々と何かが飛び出してくるたび、睡骨はそれが何かをまともに確認もせぬまま狂ったように叫んだ。もはや前後不覚で、とにかく走れという命令だけを脳が発し、足はまるで自分のものでは無いかのように駆け続けた。
おかげで道沿いの茂みに埋もれるようにして古びた石段が現れた時にも、危うく見逃して素通りする寸前に気付いたのだった。
「こっ、こっちか……!」
石段の下に立札が立ち、上るようにと指示している。
見上げれば苔の生えた十五段ほどの最上部にくすんだ赤色の鳥居がそびえ、その背後に建物の屋根が覗いているのが確認できる。どうやらここが、きもだめしの中間地点である社のようだ。
「着いた!」
この短時間に数回の全力疾走を強要されてきた足が疲労を訴えてくるが、休んでいる時間があったら一刻も早く終わらせたい。睡骨は一息に石段を上り、鳥居をくぐった。
境内は狭い上に殺風景だった。入り口に半壊した石燈籠が二つある他には、手水舎も狛犬の類も見当たらない。事前に説明された通り、奥に小ぶりな社があり、その階の上に黒ずんだ賽銭箱が据えられている。社の周りを取り囲むように汚れきった注連縄が渡され、それらに配されたぼろぼろの紙垂が柳の葉のように揺れていた。
何となく肌寒い。だが、目的地を前に止まるわけにはいくまい。
慎重に社へと近づく。階の下でもう一度辺りの気配を窺うが、己以外の気配はない。
社に向き直った睡骨は一歩ずつ確かめるように、軋む五段の階を上った。ついに辿り着いた賽銭箱の横には腰ほどの高さの台が据えられ、その上に置かれた盆の中に、「通過ノ証」と記されている白い札が重ねられていた。
「これだぁ……!」
万感の思いを噛み締め、一番上の一枚を取り上げる。これを持ち帰ることこそ、きもだめしの達成条件なのだ。
わずかばかり顔がほころんだ。ずっと強張っていた肩の力が抜ける。
「はあ。やっと折り返し地点、か――」
ふいに息を詰めた。
どこからか見られているような気がした。全身に緊張を帯びて振り返るが、何者もいはしない。
それでも気のせいとは思えなかった。もう一人の自分が日々戦場で研ぎ澄ませてきた勘の鋭さが身体に染み付き、図らずこちらの意識においてもその本能が発揮されているのかもしれない。
固唾を呑んで提灯の明かりと視線を彷徨わせるうち、睡骨はある事に気付きぴたりと動きを止めた。
札にばかり気を取られてわからなかったが、目の前に据えられた賽銭箱が妙に黒ずんでいるのは、元からの色合いや風化のせいばかりではないようだった。本来の材質は白木と見えるが、その上に無数の汚れがこびりついているのだ。
屈み込んで提灯を近付け、すぐに後悔した。
手形だ。元の色が隠れるほどにべっとりと箱にまとわりついた汚れのひとつひとつは、よく見ると人の手の形をしていた。
ごと、とごく至近距離から、木材同士が擦れる重い音がした。大変に嫌な予感を抱えながら、屈んだままの睡骨はかなりゆるゆると、視軸を持ち上げる。
頭と同じ高さにある賽銭箱の蓋がずれ、隙間から薄汚れた指が這い出して箱の縁を掴んでいた。瞬きも呼吸も忘れて凝視する間にもう片方の腕が内側から蓋を押し上げ、中にいたものが音もなく立ち上がった。
中腰になっていた睡骨は見下ろされる。病的なほど痩せ細り、俯いた頭から穴と染みだらけの襤褸を被いた影に。
影の頭部が微かに傾いた。襤褸布がずれ、顔が半分露わになる。瘡蓋だらけの、蝋のように溶けた顔。眼球があるはずの場所は、虚な空洞だった。
「あー……」
中腰のまま数歩後退した睡骨は、かく、かく、と直角的な方向転換を二度行い、次の瞬間、弾き出された。
「ああああああああああ!!」
幾重にも裏返った絶叫が夜空の下に響き渡る。
襤褸布を被いた何かはそれをも上回る金切り声を発し、高く跳躍して社の階を飛び降りるや、めちゃくちゃな動きで睡骨の背を追いかけてきた。肩越しにそれを認めた睡骨は半泣きになって絶叫の音量をさらに上げ、発火せんばかりの速度で足を動かす。
「ぎゃああああ! ついてくるなぁぁぁああ!!」
掴みかかる細い腕をすんでのところで掻い潜る。奇怪な化け物は間髪入れず体勢を戻し、再び睡骨へと肉迫する。
睡骨は繰り返し悲鳴を上げ、鳥居を潜って石段を三段飛ばしに駆け下りた。最後の段で着地失敗しかけるも根性で立て直し、順路と思しき方の道へと飛び込んで脇目も振らず疾走する。
闇夜に連なる紙垂の群れが、長く尾を引く叫び声に翻った。