三日目の朝、雨雲は影も残さず退散していた。
果てなく高い蒼穹から久方ぶりの陽光が注ぎ、鳥や虫はここぞとばかりそこかしこで大合唱している。境内にできたいくつもの潦はそれぞれに空を映し、天と地表に流れる雲の間を、爽やかな風が吹き渡っていた。
「雨が上がるまでって話だったろ。旅を再開するべきだ」
煉骨は仏頂面で突っぱねた。対する蛮骨は拝むように顔の前で手を合わせ、食い下がる。
「今日だけ。あと一日、いや半日。用が済んだらすぐに発つ。何なら俺を置いて先に行ってくれ」
押し問答を繰り返す二人を、仲間たちと新之助が傍から見物している。そして大方の予想に違わず今回も、最後に折れたのは副将の方であった。
苦々しい表情を崩さぬまま、煉骨は実に不本意げな態度で一言。
「……俺は手伝わねえ」
「はあーっ! さすが煉骨さまさま、話がわかる!!」
ぱっと両手を広げ大仰におだてる蛮骨に、煉骨はそれ以上何も言わず、不貞腐れた歩き方で銀骨の元へ移動した。
蛮骨はぐっと拳を握って新之助を振り返る。
「よし、じゃあとっとと行動開始だ。凶骨、一緒に来い」
呼ばれた凶骨が豆鉄砲を食った顔をした。よもや己に誘いがかかるとは、毛ほども思っていなかったらしい。
「おいらの墓に置く墓石を探しに行くから、運ぶの手伝ってほしいんだ」
凶骨の顔の高さまで上昇した新之助が楽しげに言う。
「おう、そんならお安い御用だ」
腕を捲る真似をして、凶骨は意気揚々と応じた。
「睡骨も行く?」
蛮骨に指名され昨日から幽霊の話し相手を務める医者の睡骨は、その後早々に打ち解けていた。昨夜は夕餉を済ませてから、新之助にせがまれて伽草子や民話の類を延々と語り聞かせていたほどである。
睡骨は微笑んで頭を振った。
「私は墓の場所を整えておこう。良いものを見つけておいで」
「わあ、ありがとう! 行ってきます!」
居残りの面々に大きく手を振り、新之助はすでに歩き出している蛮骨と凶骨を一飛びに追いかけた。
遠ざかる彼らを憮然と見ていた煉骨の口から、やがて呆れまじりの嘆息が漏れる。
「ったく、悪天のうちならまだ暇潰しとも思うが、この期に及んで餓鬼の墓作りだと……傭兵が坊主の真似事してどうすんだ」
「ま、まあまあ。これも何かの縁さ……」
睡骨は気を利かせて宥めたつもりだったが、煉骨の忌々しげな眼光に圧されて口を噤んだ。微苦笑で茶を濁し、彼もまた三人の背を見やる。
「……でも、正直意外で。彼にも、あんな風に情け深いところがあるとは」
「大兄貴のことか」
「私はたまにしか表に出られないせいかもしれないが……ああいう面は初めて見たので」
煉骨がふんと鼻を鳴らす。
「単に、思い付いたら実行してみねえと気が済まねえんだろうよ。情けなんてもんじゃねえだろ」
「そう、なのだろうか」
「俺が知るか。気になるなら本人に訊け」
睡骨は首をすくめた。さすがに正面きって訊く気にはなれない。
煉骨はわずかな間を置き、「まあ」と続けた。
「あれで、存外ほだされやすい方だぜ。本人にその自覚はなさそうだがな。損な性格だ」
今のところ痛い目を見ず済んでいるのは、ほだされるにしても相手を見ているからと言える。進んで手を伸べるというよりは、己にこれといった損が無ければひとまず流れに身を任せる性質なのだ。考えるのが面倒なのだろう。
騙し合い、寝首の掻き合いの世の中だ。一分の甘さが命取りになる危険は往々にして転がっている。線引きを誤れば、火傷では済まない。
目元に陰険なものが滲みだした煉骨は、ふと己に注がれる睡骨の視線に気付いてさらに厭そうな顔をした。
「なんだ」
「いや。何だかんだ言って、煉骨もしっかり見ているのだな、と」
「うるせえ」
『凶骨は何歳? 何を食べたらそんなに大きくなるの』
「え、歳なんかちゃんと数えた事ねえな。何をって、何でも食うぜ俺は」
『何でも? なら、今まで食べた中で何が一番おいしかった?』
「おお? え、ええとだな……」
蛮骨、新之助、凶骨の三名は裏門を目指し境内を歩いている。
新之助の言によると、裏から出てしばらく下った場所に沢があるらしい。そこならばいい具合に削れた石が見つかるだろうと踏んだのだ。
新之助の質問攻めにたじろぐ凶骨がどう答えるものかと耳を傾けていた蛮骨は、ふと足を止めた。
「んあ? 大兄貴、どうかしたのか」
遅れて気付いた二人が振り返る。蛮骨はきまり悪い顔で首の後ろに手を当て、
「悪い! ちっと忘れ物しちまった。すぐ追いつくから、先行っててくれ」
『えーっ、時間無いんでしょ、急いでよね!』
新之助はわざとらしく頬を膨らませたがすぐに凶骨との会話に戻り、程なくして二人の姿は裏門の向こうへと消えていった。
凶骨の足音が十分に遠ざかるのを確認し、蛮骨は視界の隅に認めた鐘撞堂へと足を向けた。
苔で緑がかった砂利の中にそびえる、一間四方の基礎。支柱はむき出しで壁のない造り。太い柱で支えられた屋根板は半分以上剥げている。
そして本来であれば鐘が吊られているはずの空間には、何も無かった。撞く先を失った撞木だけがぶら下がっている。
探すまでもなく、すぐ脇の地面に梵鐘が横倒しになっていた。よく見ると天辺の龍頭が砕けている。下ろしたというより、落としたのだ。
蛮骨は鐘楼の基礎に上がり、釣鐘の定位置を見上げた。黒ずんだ縄が一本、吊り金具から垂れ下がり、途中で千切れている。
そのほつれた先端を無言で見つめた後、真下に屈み込んで目を凝らした。
目当てのものはない。
夢を、思い出す。
最初は死んだ老人。
次は空腹に喘ぐ冬の日。
今朝は、男たちと吹きすさぶ雪。
あれらは。
おそらく、生前の新之助が見た光景なのだろう。
ただ本人の弁を信じれば、蛮骨が今朝見た夢にあたる、最期の記憶に関する部分を全く覚えていないようだ。
だから、己がどこでどのような死に方をしたか、思い出すことができない。この釣鐘が落とされている本当の理由も知らない。
忘れているだけなのか。あれほどに強烈な記憶を、忘れるものなのか。
いや。
記憶を掘り起こそうとした時の、痛みを感じたような表情が脳裏に蘇る。
魂そのものが、辛すぎる記憶を意図的に消去することもあるのかもしれない。そうしなければとても堪えられず、壊れてしまうくらいならば。
思い出そうとして痛みを覚えるのは、むしろ己を守るためか。
記憶の中の最も忌まわしい部分を失くしたことで、結果的に新之助は、今まで恨みも未練も抱えずにいられたのではないか。
「……我ながら、想像力豊かだな」
自嘲気味に口端を吊り上げる。
仮に夢で見た光景が実際に起きた出来事なのだとすれば、新之助が最期を迎えたのはこの鐘楼だ。
男たちはわざわざ鐘を外して弱りきった子供をここに吊り下げ、飢えた体にとどめをさすように、吹雪の中に放置した。絶命した新之助の骸はやがて深い雪の中に落ち、彼が幽霊として目覚めるより先に、鳥獣の餌食となって跡形も残さず散り散りになった。
たしかに、そんなものは。
「覚えときてえ記憶ではないな」
胸糞が悪い。
救わぬことを非道だ人でなしだと詰る気はないが、殺すつもりならその場で殺せと思う。
死に損ねをさらに追い詰めて、余興代わりや気晴らし紛いの真似をして。看取る気もなければ一思いに葬る度胸もなく、かといって自然に逝かせるでもない。
ただ、自分たちの視界で死なれたくなかった。汚いものを見たくなかった。
死に、触れたくなかったのだ。
大の男が揃いも揃って臆病なくせに、たかが小僧ひとり片付けるのに一番手間のかかる方法を選んだ事が気に喰わない。
弱い奴のすることだ。
そいつらは今も何処かで、順当に歳を重ねのうのうと生きているのだろうか。
「どっかの戦で無様に死んでねえかな」
ごちて、やれやれと髪をかき上げる。
墓を拵えてやると約束した手前、最期の場所にあわよくば骨の一片でも残っていないかと期待したのだが。
「そう都合よくいかねえか」
忘れた記憶をわざわざ掻き回してまで新之助に思い出させるつもりはない。
骨については初めから、もしあれば御の字といった程度の期待であるし、執着したところで無いものは無い。ここですっぱり諦めよう。
「蛮骨の兄貴。んなとこで何やってんだ」
背後から声をかけられ肩越しに見ると、蛇骨がこちらに歩いてくるところだった。鐘もない鐘楼にいる蛮骨を認め、気になったのだろう。
「墓石探しに行ったんじゃなかったのかよ」
「おう、これから行くぜ。お前はなんだ、気になって追っかけてきたのか」
「はあ? 誰があんな餓鬼の墓なんか」
「どうせ暇だろ。ついて来い」
立ち上がった蛮骨はすれ違いざまに蛇骨の肩を叩いて歩き出す。蛇骨は億劫そうに唸ったが、言われるままだらだらと後ろについてきた。やはり追いかけてきたのだろうと思う。
歩きながら手を頭の後ろで組み、彼は締まりのない声で言った。
「なあ兄貴よ、この寺やっぱおかしいぜ」
「まだそんな事言ってんのか。今さら新之助に害もへったくれもねえだろうが。俺からすりゃ、寝込みに発狂して殴りつけてくるお前の方がおかしいわ」
「いや、あいつはもう怖かねえって。ただよぉ、ここに来てから俺、どうも夢見が悪くてよ」
先を行く蛮骨は意識だけを蛇骨に向ける。
「へえ。どんな夢だ」
「いやあ、細かくは覚えてねえんだけどさ。やたらと寒くてひもじくて、死んだ方がましみてえな気分がひたすら続くようなやつ」
歩調を速めた蛇骨が蛮骨の横につく。
「目ぇ覚めっと嫌な汗かいてるし、寝覚めから気が塞ぎそうになって調子狂うんだよ。ああいうのを悪夢っていうんだなぁ」
ちらと横目で蛇骨を見やった。
おそらく己が見た夢と同じようなものなのだろう。ただ、蛮骨の見ている内容ほどの鮮明さはなく、それらを新之助の死に際のできごとと結び付けるには至らないようだ。
もしや他の連中も、多かれ少なかれ同様の夢を見ているのだろうか。
話題に上ればいずれ新之助の耳に入る。ならば、各々の胸中で都合よく解釈しておけば良い。
「この襤褸寺の雰囲気に呑まれてんだろ。お前、案外とそういうとこあるみてえだしな」
鼻であしらってやれば、初日の醜態が脳裏を過ぎったか、蛇骨の頬にじんわり朱が昇る。
「い、いらねえこと思い出すなっつの。俺が訊きてえのは、大兄貴はそういう夢見てねえのかってことだよ」
蛮骨は行く手を見据えたまま、「見てねえよ」と返した。