砲筒がふさがったままの銀骨と、鼻の痛みからようやく立ち直った凶骨、鬼の形相で簪を洗って磨いて髪を整えた蛇骨に、弁償の誓約書を書かされてから染物屋で井戸を借りて顔と衣を洗わせてもらった睡骨。
四人は、普段の依頼をこなすよりもはるかに満身創痍の体で、ましらと紋吉の行方を探していた。
「なんでこんな目に」
全員の胸中に浮かんでいるであろう言葉を蛇骨がぼそりとこぼした時、行く手に佇む寺の門前に、腰掛けているましらを見つけた。膝に顔を埋めて頭を抱えている。
ずかずかと歩み寄った睡骨は頭上から問うた。
「おい、クソ猿は」
「……見失ったぁ」
大方予想できた答えではあったが、四人はさらなる脱力を禁じ得ない。振り出しに戻ってしまったわけである。
「何やってんだよ……」
ましらが唸りつつ顔を持ち上げる。
「いつもはこんなじゃないのに……なんで言う事きかないんだ」
蛇骨が辟易に満ちた息をついて、寺の黒板塀に寄り掛かった。
「自由を知っちまったんだ、この期に及んでまた人間に飼い潰されるなんざ、馬鹿らしいんだろ。もうあいつのこたぁ諦めて、他の猿に乗り換えた方が早えんじゃねえの」
にべもない言い草にましらは反論しかけたが、言葉が出てこず口を何度か開閉し、
「そう……なのかな」
と再び頭を沈めた。
紋吉を捕まえられたとしても、もう、言うことを聞いてくれないのだろうか。このまま自由にしてやった方が、彼は幸せなのだろうか。
葛藤を表すように引き結ばれていたましらの唇は、やがて力ない笑みを刻んだ。
「師匠には面目ないけど、猿回しは廃業かな……今は、紋吉以外と組むなんて想像できないや」
「猿なんてみんな同じじゃねえのか」
筆を選ばず、ではないが、猿回しならどんな猿でも手懐けられようという軽い認識で訊ねた睡骨に、ましらは苦笑を深める。
「そんなわけないよ。おっさんの隼だって、他の鳥じゃ替えがきかないだろ」
痛いところを突かれ、睡骨は押し黙った。
たしかに、凪が呼び出しに応じない今、襲に助力も仰げず煉骨らへ文を返すことすらできない。それがいかに不便であるか、改めて痛感している。
「なにか特別な猿なのかよ、あいつは」
確かにいっぱしの猿より性根は悪いと思うが。
ましらはついと視線を馳せ、
「……俺の、初めての友達」
と呟いた。
「俺、親の顔を知らなくてさ。実を言うと八つくらいまでは野盗の使いっ走りみたいなことして、なんとか生きてたんだ」
ある時ましらは、野盗集団の頭から「掏摸を働いてこい」と命じられた。
それまで任されていたのは専ら言伝を届ける役や、簡単な見張りをする役ばかりだったため身が竦んだが、盗めた額によっては今後の分け前に色を付けてやると言われた。数日の葛藤の末に、ましらは腹を決めて町へと繰り出した。
目をつけたのは少し前からそこらで猿回しの芸を披露していた老人。その、帰路を狙った。
そして、見事に返り討ちにあった。
「拳骨でしこたまぶん殴られて、ぐるぐるの簀巻きにされてさ。俺を狙うなんざ百年早えだの、しょうもねえこと覚えるんじゃねえだの、もう説教の嵐、嵐、嵐」
もはや、野盗の一味に戻ることなどできなかった。あまりに情けない結果で、稼ぎが減るどころか、嬲られて追放されるに決まっていた。
そのまま自警衆にでも突き出されるものと覚悟していたましらだったが、何故かそうはならなかった。
耳に胼胝ができるほど説教を垂れた老人は、ましらに一匹の猿を突き出した。
――なにこれ。
――見てわかんねえのか馬鹿野郎。どう見ても猿だろうが。
そして老人は、
――お前の性根を叩き直してやる。今日から俺の弟子んなって、こいつの面倒を見やがれ。
もう自分は歳だから云々、この猿はお前くらい跳ねっ返りな方が合うだろうかんぬん。
滅茶苦茶だった。
しかし断ったところで行く宛があるわけでもない。反発していたましらだが、結局は老人の弟子になり、世話を任された紋吉と昼も夜も一緒に過ごし、猿回しの芸を継ぐまでに至ったのである。
「ぎ、その師匠なら、紋吉を捕まえられるんじゃ?」
一縷の希望を抱いて口を挟んだ銀骨に、ましらは苦笑して首を振る。
「師匠は前の秋に死んじまったんだ。長く患ってた胸の病が悪化してさ」
恩人を喪ったましらと紋吉は底知れぬ悲しみに明け暮れた。しかし、生きていくためには、いずれ前を向かねばならない。
悼みを乗り越えた一人と一匹は手を携え、師匠から受け継いだ技を磨きながら、各地を渡り歩いてきたのである。
「師匠の相棒は紋吉で四代目だったらしい。子猿の頃に山ではぐれてたのを拾ったんだって。歴代の猿でいちばん悪戯好きだけど、いちばん人間好きなやつだって、よく言ってたよ」
「人間好き……?」
散々な目に遭わされた七人隊の四名は、疑念に満ちた眼差しを見交わした。
ましらの視線が足元に落ちる。
「……いま思えば俺、師匠が死んでから、焦ってばっかだったかもなぁ」
――なんだか面倒な客だ。
昨夜の宴席で若旦那に絡まれた時、ましらは内心、そう思っていた。紋吉をけだものと馬鹿にし、あからさまに見下す様に少なからず苛立ちもした。
だがそれに増して、間違いなく上客である彼の心象を良くしたい、名前だけでも覚えてもらえたら、という下心を抱いたのも事実だ。
「師匠だったら、気に食わない奴なら客だろうがお偉方だろうが怒鳴りつけて、公演放り出してただろうなぁ」
「……それは見習わねえ方がいいと思うが」
睡骨が正直な感想を口にすると、ましらは小さく笑った。
「まあ確かに。でも、そのくらい相棒を大事にしてたんだよ。猿回しの中には猿を商売道具としか見ないような奴もいるけどさ、師匠は人間の家族同然に扱ってたんだ。――俺は、」
言い差したましらは目を伏せた。目元に影が落ちる。
「……上手くやることばっか考えて、紋吉を気に留めてやる余裕を無くしてた……のかも」
若旦那が紋吉を馬鹿にした時、ほんのささやかにでも「やめてください」と、庇ってやればよかった。なのに自分は何をしたか。あろうことか話を合わせて同調し、紋吉を茶化さなかったか。
――いいか、お前だけは何があってもこいつの味方でいてやれ。
師匠から生前、しつこいほど言われていたはずなのに。
息を吸い込み、大きなため息を落とす。
「あの時、座の注目がおっさんの鳥に向いちまって俺が内心で焦ってたこと、紋吉にはお見通しだったんだろう。それで、何か変わったことしてでも客の視線を取り戻すつもりで、酒なんか口にしたんだと思う。なのに、俺……」
男たちが次の言葉を待っていると、ましらはふいにすっくと立ち上がった。
「いや、湿っぽくなってる場合じゃないや」
そして睡骨らを振り返る。時化た顔をしているのかと思いきや、案外けろりとしている。
「今にして思えば、おっさんが縄切ってくれて、かえって助かった気がしてるよ。あのままあそこにいたら紋吉、奴らに叩き殺されてたかもしれないもんな」
ましらはあの後すぐ、紋吉を追いかけ外に飛び出したわけであるが、その後あの座敷でどんな会話が繰り広げられたものか、想像もするのも恐ろしい。
「そういや、柿渋まみれになったおっさんの方は、大丈夫だった?」
思い出した風情で問うてくる少年に、睡骨は憮然と返した。
「とりあえず頭から水被ったが、臭いも染みも落ちるもんじゃねえ」
口の中はまだびりびりと痺れている。しばらく残りそうだ。
「……まだ探すのか」
答えはわかりきっていたが、訊いた。
「そりゃ俺は、相棒だからな」
でも、とましらは続ける。
「あんたたちはここまででいい。危うくみんなの大事な物まで壊しちまうところだったし。あいつが迷惑かけて悪かったよ」
ましらは懐から色褪せた巾着を取り出した。中から銭の束を二本取り出し、一番近くにいた蛇骨に押し付ける。
「約束の額には足りないけど、これで大目に見てくれ。払えるなんて嘘言ってごめんな」
一文無しよりなんぼかましだろ。
にやりと笑み、ましらは右手を軽く振って身を翻した。投げかける言葉を男たちがまごまごと思考する間に、小柄な背中は人混みの中へと駆け去っていく。
四人は寺の門前に突っ立ったまま、据わりの悪い面持ちでそれを見ていた。
報酬を手にしたにもかかわらず、宿への帰路を辿る四人の足取りは覇気に欠けていた。
なんら成果を上げていないが、ましらが不要と言うのであれば、猿探しはこれにて終了。宿に預けたままの旅荷を回収次第、当初の予定通り蛮骨らとの合流地点を目指すことになる。
歩きながら睡骨は懐に手を当てる。ましらに渡された銭束は懐中の財布にしまわれていた。あんな失態をやらかした後だというのに、どういうわけかまたも自分が金銭管理を務めることになっている。
一貫には到底及ばぬが、手間賃というには多過ぎる額。常であれば、得をしたと喜ぶところだが。
「ぎし、ましら、あんなに寄こして大丈夫なのか?」
銀骨の言葉に、睡骨は指先に触れる重みをわずかに握り込んだ。ほんの半日程度の付き合いでしかないが、空元気で塗り固めたような小僧だということだけはわかる。
「大丈夫では……ねえだろうな」
「つっても、どこ行ったかわかんねえもんは返しようがねえぜ。俺たちじゃ猿なんか捕まえらんねえのも、身に染みてわかったしよ」
蛇骨が大仰に肩をすくめて首を振ったその時、四人の目の前を数人の子供たちが騒々しく駆け抜けていった。店表に柄杓で水を撒いていた女が声をかける。
「こらあんたたち、そんな急いじゃ転んじまうよ」
「だって早く行かなきゃ! あっちで、ついに猿を追い詰めたって!」
最後尾の子供が足を止めず口早に答える。
「遠くから見るだけにしときな。怖い人らに近づくんじゃないよ」
女の忠言を背に遠ざかっていく子らを、四対の黒目が無言で追いかけた。
宿場町の中心部に設けられた広場を取り巻くように、人だかりができていた。
早朝から町を騒がせていた猿がとうとう追い詰められたという。噂を聞きつけて集った野次馬たちが、しきりにざわめいている。
無数の視線が集まる先では、いかにも堅気ではなさそうな面構えの男たちが大きな円を描くように並び立ち、物々しい目つきを外周に向けていた。
三下の男たちで構成された円の内側には、猪狩りにでも用いるような大きな竹檻がひとつ据えられている。その扉は太い縄で厳重に戒められていた。
「おい」
野次馬の一人が隣の者にそっと囁いた。
「猿が捕まったって聞いたが、ありゃ人間の小僧っこじゃねえか」
「なんだって?」
言われた隣の男が怪訝に目を凝らす。人だかりと並び立つ破落戸どもの陰になって見えなかったものを、その時ちょうど視界に捉えることが叶った。
「ありゃ、本当だよ」
大きな竹檻の中に縛られて横たわっているのは、紛れもなく人間――猿回しのましらだった。
ひとり紋吉探しを続行していたましらが破落戸たちに取り囲まれたのは、睡骨たちと別れて幾ばくも経たぬうちの事だった。
おそらくは朝からずっと、一人になる瞬間をつけ狙われていたのだろう。最初からこうするつもりだったのを、素性のよく分からぬ男たちが周りにいたものだから手を出せずにいたと見える。
囲まれた瞬間、ましらは即座に状況を察したが、抵抗する隙も助けを求める間もなく荒縄で後ろ手に拘束され、広場の中央に設置された竹檻の中に放り込まれてしまった。
「くそ……っ」
手首足首を縛られなす術なく横たわったまま、地面に頬を付けて歯噛みする。
彼らと別れたのは失敗だった。これでは紋吉を探すどころではない。
手足には、捕まった際に棒で打たれた痕が青痣になっており、身じろぎする度にじんじんと疼いた。
顔をしかめていると、のすのすと太い足音が檻の入り口で立ち止まった。
「よう、昨夜はよくも逃げてくれたなぁ」
昨夜の宴席で、若旦那の相手をしていた大男である。破落戸の親分格だろう。
「……すみません、逃げたわけじゃ、ないんですけど」
言ってからましらは小さくなった。紋吉を捕まえねばと、そればかり考えて賭場を飛び出したため、確かに彼らから見れば逃げたと認識されても当然なのである。
「ほ、本当に申し訳ありませんでした……。俺、一緒に謝らせるために、あいつを追いかけて」
「一緒に謝るだあ? 手前、舐めてんのか」
大男が竹檻を蹴った。怒声でびりびりと空気が震える。
「猿公に謝罪の気なんかあるもんかよ。そんなもんで許されると、本気で思ってやがんのか糞餓鬼」
その剣幕に怯みそうになるが、ましらはぐっと目元に力を込めた。
「ち、違います! もちろんそれだけじゃなくて! 汚してしまった御召し物は、一生かかっても弁償するつもりで、」
「一生てな具体的にいつだ? 手前が爺になるまで待てってのか? 手前の稼ぎは幾らで、若のあの羽織は幾らすると思って言ってんだ。ああ?」
「そ、それは……」
ましらは何も、その場しのぎを口にしているわけではない。本心から、羽織は弁償せねばと思っているし、大変なことをしでかしたのもわかっている。
ただ、自分は猿回しなのだ。猿回しは猿がいなければ立ち行かない。だから何よりもまず、紋吉を連れ戻すことを優先せねばならなかった。
だが、それを伝えたところで破落戸どもがすんなり納得するはずもない。
親分格が檻の隙間から太い腕を伸べて、ましらの髪をぐしゃりと掴み上げた。顔を持ち上げられ、耳元に濁声が降りかかる。
「手前はもう、猿を探さなくていいぜ」
「え……」
「人手割いて方々探し回らせたところで埒が明かねえ。こうなりゃ、飼い主の手前をダシに猿をおびき寄せた方が早えってもんだろ」
唇を噛む。人目も憚らずこのような強引な手に及んだ理由はそれか。
親分格の男は「まあ俺としちゃ、手前が落とし前つけりゃ猿なんざどうでもいいが……」と続ける。
「若旦那がよ、あの猿たたき殺して皮ぁ剥いでやるんだと息巻いて聞かねえんだ。まあ良い腹巻にゃなるだろうぜ」
その言葉にましらは瞠目した。背筋を嫌な汗が伝う。
「そういうこった、せいぜい哀れな声でも出して猿を呼び寄せてくれや。……できねえなら、もっと痛めつけて悲鳴を絞り出してやるが」
声に凄みをきかせながら顔を近付けてくる。
歯噛みしかけたましらは――しかし、ふと静かな面持ちになると真正面から大男を見返した。
「残念ですけど……こんなことしたって、紋吉は来やしません」
「ああ?」
「情けない話ですが、俺はあいつに愛想尽かされてんです。もう俺の言うことなんかこれっぽちも聞きません」
自嘲じみた、いっそ挑発的にさえ見える笑みが浮かぶ。
そうだ。紋吉は今この時も、どこぞの高みからこの光景を眺め、いい様だと思っているかもしれない。
――そんなこと、思いたくはないけど。
震えそうになる瞳に、ましらは意識して力を込めた。
皮肉なことだが、今は紋吉が反抗している状況が、むしろ幸いしている。
現れなければ捕らえられることもない。
男は鼻を鳴らすと、放るように手を離した。ましらの頭はどしゃりと地面に落ち、もたげようとしたところに、男が格子の隙間から足を差し入れ、ぎりぎりと踏みつけてきた。
「……ああそうかよ。そりゃ踏んだり蹴ったりだな。さっきも言ったが、俺ぁどっちでもいいんだ。猿が来ようが来まいが、手前はさんざん甚振った後で人買いに売り飛ばしてやらぁ。世の中にゃな、死にかけの餓鬼でも金出して買う物好きがいるんだぜ」
吐き捨て、親分格の男は背を向けると足音荒く離れていった。
歯を食いしばって耐えていたましらは、静かに息を吐く。
自分はどれだけ痛めつけられても構わない。
しかし、紋吉はだめだ。
奴らに殺されるくらいなら、野にでも山にでも逃げてくれ。
たとえ、もう二度と会えなくなるのだとしても。生きていてくれれば、それでいい。
檻を離れた大男は、忌々しげに辺りを見回した。
「ずいぶん見物人が増えてんじゃねえか。見世物じゃねえぞ」
「どこをどう間違って広まったんだか、奴ら『猿が捕まった』と思い込んでやがるんです」
そのためか、実際に檻に入っているのが少年だとわかると、「やり過ぎだ」「かわいそうに」と非難する声が方々から上がり始めている。
「外野がつべこべ騒ぎやがって。お前ら、ちっと散らしてこい」
「へい」
三下たちがさっと踵を返しかけた刹那。
「――猿だ!!」
野次馬の群れから鋭い声が上がった。観衆が騒然とどよめき、聞き留めたましらは耳を疑う。
「な……」
必死に頭を持ち上げる。視線の先で群衆が二つに割れた。その中央を、小さな影が一直線に駆けてくる。
「そん、な……」
愕然と両眼を見開く。
なぜだ。
これっぽちも言うことを聞かなかったくせに。
どうしてこんな時だけ。
「っ……、く――」
来るな、と叫びかけた時。
猿の後ろに続き、四人の男たちが広場へと乗り込んできた。