虚心坦懐きょしんたんかい

夜闇に鈍い音が響く。続いて、草むらに何かが崩れ落ちる音。
血振りをくれて刀を鞘に納めた隼人は、息をついて空を見上げた。
深い夜に少量の星が瞬く。
西への旅を続けてすでに二月は経過している。どこまで行こうとも、空の景色は大差ない。
彼の足もとには、今しがた事切れた亡骸が二つ転がっている。
刺客はたびたび一行の前に現れた。
と言っても、大半はこのように夜間を狙って仕掛けてくることがほとんどで、小太郎の目には触れずに済んでいる。
昼間であっても、気配を掴みしだい追いつめて仕留めるようにしているので今のところ大きな被害はない。
それでも、安心して眠れないというのはじわじわと疲労を蓄積させた。
交代で見張りを立てているものの、生来から勘の鋭い隼人は小さな気配にもいち早く反応する。
夜中に何度か目を覚まし、異常が無いのを確認するついでに小太郎の布団をかけ直す、というのがもはや日課のようになっていた。
小さな嘆息がこぼれる。
こんな夜はもう何度目になるだろうか。
疲労が溜まれば、いずれ小太郎にも悟られてしまうだろう。それではかえって心配をかけることになる。
どうにか効率よく休息を取れないものかと思案していると、ふいに手を舐められた。
驚いて視線を下げると、いつの間にか蒼空(そら)がそこにいた。
血の臭いを嗅ぎつけて来たのだろうか、首を傾けて隼人の顔を見上げてくる。
その邪気のない目には案じるような色が(たた)えられていた。
「戻るのが遅くなったか」
しゃがみ込んで頭を撫でる。そのまま両頬を包み込んでわしゃわしゃと掻いてやると、白狼は嬉しそうに目を閉じた。
「お前がずっと小太郎の傍にいてくれるから、助かってるんだぞ」
危機が迫れば、本当は隼人のもとに駆け付けたいのを堪えて小太郎の近くに控えているのだ。
それが結果として隼人の役に立つ方法なのだと、理解している。
物言わぬ狼が一心に慕ってくるのを感じて、隼人は穏やかに笑んだ。
「さて、戻るか」
立ち上がり、仲間たちが寝床を構えている場所へ引き返す。
ゆるく尾を振り、蒼空もそのあとに続いた。

翌日、一行は深い山中を進んでいた。
整備された道からは外れており足場が悪い。小太郎は蒼空の背に乗せられて悪路を越えた。
「ごめんね蒼空。重いよね」
しがみつきながら気遣わしげに問う小太郎に、白狼は大丈夫だと言うように何度も耳を動かしてみせる。
そんな蒼空の頭をぽんぽんと軽く叩き、隣を行く隼人は坂道の頂上へ向けて大きく跳躍した。
危険がないことを確認して、仲間が登ってくるのを引き上げる。
あとは下るばかりとなり、一行はそこで一息つこうと倒木に腰かけた。
蒼空から降りた小太郎がいたわるようにその背を撫でる。だが蒼空は、周囲をせわしなく眺めていた。
「お兄ちゃん、蒼空が」
「どうした」
「何か探してる……のかな?」
隼人が近くに歩み寄っても、蒼空はしきりに空気の臭いを嗅ぎ、きょろきょろと首を巡らせている。
「美味そうな臭いでもしてるんですかね」
嵩重(たかしげ)の言に、隼人は訝しげに首を傾げた。
そういうわけでは無いように思える。かといって、敵がいるという訳でもなさそうだ。
蒼空は一度だけ隼人を見上げると、まっすぐにいずこかへ駆け出した。
「あっ、蒼空! どこいくの!?」
「小便じゃねぇのか」
玄次郎(げんじろう)の言葉に納得できず、小太郎も兄を見上げる。
「い、いいのかな。追いかけなくてだいじょうぶ?」
「ここで待っていろと言ってたからな、少し経てば戻ってくるだろ」
思慮深く言う隼人に、その場でくつろいでいた全員が目を剥いた。
「は、隼人さん! 犬…いや、狼の言葉がわかるんですか?」
「へ?」
「ちょ、超能力じゃねぇのか」
「でも、蒼空は吠えたりしなかったよな。無言で行っちまったし」
「いや」
「すごいね兄さん、どこでそんな芸当身につけたの」
一気に関心の的になってしまった隼人は、どうしたものかと頬を掻く。
「えー……いや、言葉がわかる訳じゃ」
言い方が悪かったかもしれない。
「何ていうか。目を見たら何となく言いたいことがわかるっていうか……?」
的確な表現がわからず疑問形になってしまうが、やはりそれが一番しっくりくるような気がする。
「本当は全然間違ってるかもしれねぇし。そんな凄いことじゃ」
手を振って否定するが、秋雪が口元に指を当てて深く頷いた。
「確かに、蒼空は事あるごとに隼人の顔を覗き込んでいます。
なるほど、あれは会話してた訳ですね。なるほどなるほど」
「すごいなぁ! ぼくも蒼空の気持ちがわかるようになれるかな」
きらきらとした瞳で見上げてくる弟に、もはや頷くしかない隼人であった。
果たして、蒼空はさほど経たぬうちに戻ってきた。
「あ、蒼空! 何かあった?」
小太郎がさっそくその顔を覗き込む。
蒼空は何かを訴えているようだが、小太郎が難しい顔で降参の意を示すと、困ったように隼人のもとへやってきた。
苦笑を浮かべて蒼空の視線を受け止めた隼人は、ややあって目を(しばたた)かせた。
「ふむ……」
「なんだって?」
「何か見つけたらしい。そこに俺たちを案内したいようなんだが」
おおっ、とどよめきが生じる。予想通りの反応に隼人は半眼になった。
見世物(みせもの)になっていないか……?
「行ってみようよ!」
嬉々とする小太郎に首肯する。蒼空が言うのだから、危険なことがあるとも思えない。
休息を終えた一行は、蒼空の案内に従って山道を下った。
落ち葉で滑りやすい斜面を、木々に掴まりながら進む。
しばらく進んだ先で、蒼空が小走りになって彼方で止まり、皆の到着を待つように尻を落とした。
そこへ辿り着き、狼が示すものを目にした一行は瞠目した。
人間。山のように大きな体躯の男が、大木にもたれるように座り込んでいる。
顔は人間離れした鬼のような形相で、手も足も、何もかもが大きく隆々としている。
男は意識が無いようだった。その身体には無数の裂傷や刺し傷があり、ところどころが(えぐ)れたようになっている。
周囲の落ち葉は紅葉とは別の朱で染まっていた。
小太郎が怯えたように隼人の腰にしがみついた。
空気に鉄の臭いが漂う。少なくとも小太郎には見せるべきではなかったと、隼人は後悔を覚えた。
蒼空は一同の反応を眺めて耳を垂れ、大男の身体を鼻先でつついた。
血に濡れた大男は全く反応しない。
「し、死んでる……のか?」
やっと、煉が口を開いた。
秋雪が慎重に近付いて、様子を探る。
「いえ、気を失っているだけのようです。(かす)かですが息はあります」
「こ、これを俺たちに見せて、どうしろってんだ」
玄次郎が困惑した面持ちで蒼空を見る。
隼人も真意を(はか)るように白狼を見据えた。その瞳が訴えてくるものが、何となくわかる。
だが、それには手放しで頷くことができなかった。
「もしかして……助けてやれという意味なんじゃ」
蒼空の気持ちが読めたわけではないだろうが、嵩重がおずおずと発言する。
その意見は隼人が感じたものと同じだった。
「はあ? どう見ても長くねぇだろ。それに、こんな所で道草くってる場合か」
玄次郎の言い分ももっともだった。
「ね、ねえ。その人…助からないの? 死んじゃうの……?」
小太郎が隼人の陰から不安げな瞳を男に向けた。
「なおしてあげられない……?」
小太郎の問いかけに、隼人は大いに困った。
琴吹(ことぶき)が手近な木に背を預けて腕を組む。
「さて、どうするの兄さん。あたしは兄さんの決定に従うよ。
この男を介抱してみる? それとも放っておく?」
他の者たちも同様だというように、視線が隼人に集中する。
隼人は難しい面持ちで口を引き結んだ。
ここで足を止めるという選択は、普通に考えてありえない。
だが、蒼空がここまで導いたのには何か理由があるのではないか。
逡巡を重ねた隼人は、一度目を閉じると秋雪を見据えた。
「秋雪。お前なら助けられるのか」
問いを受け、秋雪は改めて男の身体を確認する。
深い傷が多く、出血もおびただしい。こんな怪我人を見るのは初めてだった。
通常ならこれは死者だ。
だが。
「これだけの深手を負いながら、まだ生きている。手を尽くせば、救える可能性はあります」
彼の生命力に賭ける価値はある。
「できることなら私も……治してさしあげたい」
「正気か? こいつを助けたところで、俺たちに何の得がある」
眉を吊り上げる煉に、隼人は蒼空を見下ろして口を開く。
「……五日だ。五日経ったら助かろうが助からまいが旅を再開する。
幸い、敵が追ってくる気配もない。しばらくはここにいても大丈夫だろう」
秋雪と小太郎、そして蒼空の顔がぱっと明るくなった。

日が沈み、夕餉を終えた一行は焚き火を囲んで何をするともなく過ごしていた。
昼間は食料や水を調達するために川を探し、幸運にも少し降った場所でそれを見つけることができた。
暗くなってしまうと無闇に歩き回るのは危険だ。大人しく時間を潰すにかぎる。
秋雪はずっと、焚き火から少し外れた場所で大男の看病に努めていた。
蒼空と小太郎は彼の後方からその様子を心配そうに見守っている。
秋夜に寒さを覚えて手を擦り合わせた小太郎の肩に、上着がかけられた。
顔を上げると隼人が身をかがめて彼らの頭を撫でてくる。
「もう遅い、そろそろ寝た方が良い」
「う、うん。でも、この人がしんぱいで」
「俺が代わりに看ているから、蒼空と一緒に焚き火の近くに行ってろ」
小太郎は大人しく頷くと、白狼を伴って皆のもとへと戻った。
秋雪と二人になり、隼人はその背に問う。
「どうだ?」
「先ほど、ようやく縫合を終えた所です」
彼は額の汗を拭きながら振り返る。
横たわる男の身体は、ほとんどが包帯で覆われていた。
「こんなに負傷しながら生きているなんて、にわかには信じられない話ですよ。
できるかぎりの処置はしましたが、いかんせん失血が多い。
あとはこの人自身に賭けるしかありません」
「そうか」
男の呼吸は浅くて速い。肌は浅黒いにもかかわらず血の気が無く、今にも命が尽きそうだった。
「気になったのですが、この人、持ち物を何も持っていなかったんです。
食料とか水とか、そういうものも何ひとつ」
「追剥ぎに遭った……てことか?」
「わかりませんが…」
これほどに痛めつけられるとなると、相当の恨みを買っていたのかもしれない。
傷を負わせた本人も、よもやまだ息があるとは思っていないだろう。
「助けて良かったんだろうか」
いささか不安になる隼人に、秋雪は苦笑した。
「でも、私は嬉しかったですよ。医者として、やはり怪我人を放っておくのは心苦しい」
この状態を延々と続かせるよりは、手を差し伸べるか、どうしても手立てがないならいっそ楽にしてやりたいとも思う。
「まあ、滞在すると決めたのは俺だしな。お前は責任とか考えなくていいから、五日間、せいぜい頑張ってくれ」
隼人は肩をすくめながらその場に腰を下ろす。
「お前、まだ飯食ってないだろ。俺がここにいるから、ついでに仮眠も取ってこいよ」
「すみません。では、お言葉に甘えて少々席を外します」
散らばっていた道具をまとめて、秋雪もまた焚き火の方へ歩いていく。
ひとつ息を吐き、隼人は夜空を見上げた。
今日は星が瞬いている。しばらく雨に降られることもないだろう。
眠っている男の身体を眺める。
自分よりよほど身長が高く、がっちりとした体躯。嵩重にも張り合えそうなほどだ。
秋雪が処置した包帯から薬の臭いが漂ってきた。
いつからここにいたのだろう。周囲に散った血液は乾ききって黒く変色している。
これほどに血の臭いがしていれば、蒼空でなくとも獣が寄ってきそうだ。
木に背を預けて男を眺めながら、今夜も気が抜けない、と隼人は思った。

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