「兄貴兄貴兄貴兄貴ぃぃぃ――!」
やかましい。
闇の中、廊から何かが壁に激しくぶち当たり、あれこれを蹴倒す音が近付いてくる。
心地よく寝ていた蛮骨は、騒音とともに転がり込んできた蛇骨に胸ぐらを掴み上げられた。
「兄貴、蛮骨の兄貴ぃぃっ!! あぁあぁ起きろ起きろっつのこの馬鹿!」
がくがくと力任せに揺さぶられ、頬を左右に引っぱたかれる。
そこまでされるとさすがに目も覚めていたのだが、起き抜けにさらもう一発拳を叩き込まれては、眉間のしわも深くなろう。
「おい……殺されてえのかお前」
「ああ起きた! 兄貴、もう無理だ! こんなクソ寺さっさと出るぞ! 兄貴たちが居座るんなら俺一人だって出てくぜ!! 死ぬなら勝手に死ね!」
「いや、何なんだお前……」
相変わらず要領を得ない。
「俺は行くぜ! こんなとこいるくらいなら、嵐の中で遭難した方が千倍ましだぁ!」
ひとりで騒ぎひとりで恐慌状態におちいっている。らちが明かぬので一度黙らせようと、静かに拳を握る。
『――うるさい奴だなぁ』
闇の中から響いた声に、蛮骨は拳を顔の高さに持ち上げたまま固まり、目をしばたいた。
「ひぃやぁぁ出たぁぁぁ!」
蛇骨がひときわ甲高く絶叫し、蛮骨を放り捨てて壁際に後退する。
「……今の、なんだ」
蛮骨は即座に片膝を立て、剣呑な眼光で目の前に広がる闇を探った。蛇骨はというとその場に平伏し、めそめそと嗚咽を漏らし始める。
「変なとこで小便してすんません許してください次からちゃんと厠行きます」
「おい、わけわからんこと言ってねえで――」
しゃんとしろ、と言いかけた声が途切れた。
視線を斜め上に縫い留められた蛮骨に気付いたか、蛇骨もまたそちら――己の頭上――をそろそろと見上げた。
その位置から見えたのはせいぜい、中空の白い足先くらいのものだったろう。
中空の。
地についていない。その上、少し発光している。
「ああ無理あああああああもう無理ああああ」
それ以上先を見ることなく、蛇骨は頭を抱えて床を転がった。
『うるさいって』
呆れたような、高い子供の声が再び聞こえた。空気を介して伝わる音とは異なる、耳の中に直接響くような感覚にぞわりとする。
「ひ、ぃ……やめろやめろ……」
小刻みに震えひたすら「やめろ」と繰り返す蛇骨の後ろで、煉骨が低くうなった。熟睡していた他の面々も騒音によって眠りを妨げられたらしく、次々と緩慢な動きで起き上がる。
「……るせえなあ、てめえはさっきから何を騒――」
不機嫌丸出しで目を擦った煉骨の言葉がぶつりと切れた。他の者らも一様にぽかんとした間抜け顔を並べ中空を見上げている。唯一違うといえば、今なお図太く寝息を立てている凶骨くらいのものだった。
放心する男たちの中心で、彼らの注視を一身に集める者――仄白く発光する子供(宙に浮いている)――は一同をぐるりと見回し、首を傾げた。
『え、何だよお前ら。もっとわあとかぎゃあとか言うもんでしょ。まさかそいつ以外、おいらのこと見えてないの?』
子供は蛮骨のもとへ宙を滑るように飛んでくると、「おーい」と眼前で手を振った。
蛮骨はぎょっと目を剥いて身を引く。
「えっ、なん…はぁ!?」
停止していた思考が一斉に動き出す。動転する頭を必死に制し、蛮骨は眼前の子供の頭頂から足先まで、視軸を幾度も往復させた。
真ん丸ないがぐり頭、同じく丸い大きな瞳。向こう側が見えるほど透けた、青白い肌。やや寸足らずの白い小袖に包まれた姿は、身丈だけで判じるならばまだ七つやそこら。
浮いてる。透けてる。発光してる。
三呼吸ほどでざっと把握した蛮骨は、ぎしぎしとぎこちなく腕を持ち上げて目の前の子供を指さし、
「ゆ…れ、い?」
とだけ、ようやく発した。声にしてみるといかにも馬鹿げた問いに思えたが、仲間たちも息を詰めたまま首領と子供のやり取りを窺っている。
『あ、なんだ見えてるんじゃん。そう、おいら幽霊』
冗談みたいな問いは、冗談みたいにあっさりと肯定された。
途端、蛇骨の裏返った悲鳴が轟く。彼は今、煉骨の葛籠つづらの中身をひっくり返して代わりに己の頭を突っ込んでいる。
自分の声で他の音を全て打ち消さんとするように叫び続ける様を、幽霊だという子供はじとりと見下ろした。
『ねえ、そいつちょっと黙らせてくんないかな。さっきからずっとうるさい』
近くにいた煉骨が即座に葛籠から蛇骨を引っこ抜き、その口を両手で塞ぐ。
「あば、おごべがぼびぃ」
蛇骨はなおもおぼれたような悲鳴を上げ手足をばたつかせたが、見かねた蛮骨にすぱんと頭をはたかれてようやく大人しくなった。
『やれやれ、これでゆっくり話ができるね。なにせそいつってば、おいらが何か言う前に勝手に騒いで勝手に逃げてっちまうんだもの』
参っちゃうよ、とませた仕草で肩をすくめる幽霊は、幽霊だというのに何とも饒舌だった。
「お、お前は……誰だ」
とりあえず会話は成立している。蛮骨は警戒を緩めぬまま子供に問うた。状況は全く理解できていないが、己の呼吸を意識して極力心持ちを平静に保つ。
『あっ、おいらの名前? 新之助しんのすけだよ!』
子供はことのほか嬉しげに名乗った。幼さの残る声である。
『おいらは生きてた時、この寺に住んでたの。お前たちこそ誰さ』
「……ただの、旅の者だ」
蛮骨は適当に答えた。こんな子供に「七人隊」や「傭兵」などと名乗ったところで通じるとは思えぬし、真実幽霊というやつならば、馬鹿正直に身元を明かすのはどうかと思う。
問うてきた幽霊自身、蛮骨たちの正体にはそこまで関心が無いらしく、それ以上深く尋ねてはこなかった。
『ふーん。蛮骨は話が通じる人で良かったよ』
「なんで名前を」
『なんでって、さんざんお互いに呼び合ってたじゃんか。みんな似てる名前だし、半日も聞いてれば嫌でも覚えるでしょ』
一行は苦虫を噛み潰したような顔になる。こちらの会話が終止筒抜けだったということか。大した話をしたわけでもないのだが、盗み聞かれて良い気分にはならない。
新之助と名乗った幽霊は、興味深げに一行を見下ろした。
『お前たちはおいらを見ても、驚きはするけど取り乱さないんだね。珍しいなぁ』
確かに、手本のような怖がり様を見せているのは蛇骨だけで、他は目を白黒させ固まってはいるものの、叫び出したり逃げ惑ったりといった無様は晒していない。
「まあ……餓鬼…に、見えるし。足あるし」
「え、足……?」
それまで黙っていた煉骨が、なに言ってるんだお前と言いたげな目を向けてきた。蛮骨もまた、なにがおかしいのかと思ったのでそういう顔で見返す。
「ああ、足。無いもんだろ幽霊って。足」
至極当たり前のことを言ってやると、煉骨はなぜか困惑の色を強めた。
「それはあくまで想像上の共通認識で…いや、それよりも今の場合はそんなの…足があろうが、無かろうが……だって、」
「あ?」
「え?」
『……っ、あははっ』
新之助の甲高い笑い声が響いた。
はっとして会話を中断する。そんな場合ではないというのに、話が脱線していた。
『面白いなぁ、お前たち』
ひとしきり笑った新之助は、ばつの悪い顔をしている蛮骨を見上げた。
『今までおいらを見た奴らはみんな、一目散に逃げてったんだけど』
そいつみたいに、と言いながら、新之助は煉骨の陰に身を隠す蛇骨を示した。その語調から悪意は感じられず、つい蛮骨も苦笑を滲ませてしまう。
「おう、言われてるぞ蛇骨。そろそろ正気に戻ったかよ」
蛇骨は半分だけ顔を覗かせ、新之助を恨めしげに睨んだ。
「こ、この餓鬼がっ……、昼間っから事あるごとに人の耳元で弱虫だのうるせぇだの……」
『本当のことじゃんか』
にやにやと笑みを浮かべる新之助が、揶揄からかうように蛇骨の周りを漂った。蛇骨は毒虫にでも迫られたが如く「ぎゃっ」と飛び退く。
「あー……すまんが俺ぁまだ、これが夢か現実か」
睡骨がお手上げと言いたげに両手を上げ、霧骨もそれに倣って新之助に問いかけた。
「おい小僧よ、おめえが本当に幽霊だってんならあれか。俺らを祟るとか呪うとか、そういうあれこれをしやがるつもりなわけか?」
微妙に弛緩しかけていた空気が、再び緊迫した。
なんとも耳慣れぬ問いだ。が、最重要事項でもある。相手の目的がはっきりせぬことには、こちらの出方も決めようがない。縁もゆかりもない事で呪い殺されてはたまらない。
『あ、それはないよ。呪うとかそういうの、おいらやり方わかんないもん』
幽霊はきっぱりと否定したが、そんなことは口先三寸でどうとでも言える。蛮骨は子供の瞳を見据えたまま霧骨の放った問いを引き継いだ。
「なら、他に何がある。俺らの前に姿を現した理由は何だ」
「やっと話ができる」と言っていたからには、脅かすことだけが目的ではないのだろう。
ふよふよと漂っていた新之助は、重さを感じさせない動きで床にすっと足をついた。
『ひとつ、頼みを聞いてほしいんだ』
大きな瞳が侵入者たちを見回す。侵入者たちの面持ちは緊張で硬くなる。
『あのさ、この時期の雨は長いんだ。今回も、たぶん明日一日は止まないと思う』
「あ? はぁ」
唐突に始まった天気予報に、真意を測りかねた蛮骨は曖昧な反応となる。一拍置いて、新之助の眼差しにぐっと力がこもった。
『だからさ――雨が上がるまでの間、この寺にいてほしいんだよね』
「………………それだけか?」
『ん? そうそれだけ』
鬼が出るか蛇が出るかと構えていた一同は、一瞬聞き違いかと思っていた。
「ええ……と、なんで」
『このぼろっちい寺に人が来るなんて数年ぶりだから。こんなに賑やかなのはいつ振りかなぁ。おいら、ずっと話し相手が欲しかったの』
「はぁ。あー、ふむ……」
どう返したものか答えあぐね、蛮骨は顎に手を当ててうなる。
否、明らかに拒否するべきところなのだ。
友好的な態度には見えるが、およそ霊だの妖怪だのいうやつはその腹に別の目的を隠しているものだろう。よく分からないがたぶん。油断させて精気を奪うとか生き血をすするとか、そういう。
しかしそう考える一方で、新之助の思考が外見年齢相応であるならば、やはりそこまでの腹積もりは無かろうという気もしている。
そもそも侵入者である七人隊をどうこうするつもりなら、わざわざ声などかけずに実行しているはずだ。少なくとも自分ならば、こうして考える時間を与え返答を待ったりはしない。
逡巡から戻った蛮骨は若干の煮え切らなさを残しながらも口を開いた。
「……まあ、そのくれえなら別に、いいか。なあ煉骨」
「どうして俺に振る」
「太鼓判というかお墨付きというか連帯責任というか」
煉骨の面には同意しかねるという文字がありありと浮かんでいる。のだが、蛮骨の視線を受けると喉元まで出かけた反論を飲み下し、
「好きにしてくれ」
投げやりに言い放った。
『へっ? うそ、本当にいいの!?』
虚をつかれた風情の新之助に、蛮骨は胡乱うろんに片眉を上げる。
「ああ? 何だよ、自分で頼んでおいて」
『そ、そうだけど……ぜったい断られると思ってたから』
「断ってもいいなら――」
『あ、いや、だめ。だめだめ』
手と首を横に振る新之助の青白い頬が、桜色を帯びていく。
『そっか、へえ、良いんだ……わぁ』
もごもごと呟いていたが、やがてぱっと表情をほころばせた。
『嬉しいなぁ! いっぱいお喋りしようね!』
喜色満面の子供幽霊はくるくると舞い飛び、逆に真っ青になった蛇骨は絶望に顔を歪めて蛮骨へと詰め寄った。
「嘘だろ嘘だよな!? このままずっと、幽霊と、同じ、屋根の下!?」
「ずっとじゃねえ。雨が止むまでって話じゃねえか」
「止まなけりゃずっとだろ?!」
「永遠に降りっぱなしなわけあるか。長くたって一日二日だろう」
事も無げに言われ、蛇骨はよろめいて床に両手をつき項垂うなだれる。
「うわああ、兄貴がこんなに阿保だと思わなかったぜ。きっともうすぐお別れだな……! 残りの人生、せいぜい幽霊と仲良く暮らすがいいや、俺は――」
「ひとりで出てくってんなら別に止めねえよ。ただ、腹空かして風邪ひいた挙句、寝込んで足でも引っ張りやがったあかつきには、それこそここに置いてってやるけどな」
ぎゃいぎゃいとまくし立てる蛇骨に、蛮骨は目をすがめ淡々と宣告してやった。

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