――爺さま。爺さま。
悲痛な声が、冷えた伽藍の天井へ吸い込まれて反響した。
大壇の前に倒れ伏したまま一寸も動かぬ、僧衣の老人。
その身に縋りついて嗚咽する子供が、ひとり。
他に人気はない。
土気色になった老人の肌は氷のように冷たく。
呼吸も、胸の鼓動も、聞こえない。
――起きて、爺さま。目を覚まして。
慟哭は静寂に呑み込まれる。
立ち並ぶ仏像は見て見ぬふりをし、何も聞こえぬふりをしている。
縋った老人の肌から冷気が伝播して、指先が冷えた。
――誰か。誰か。
――爺さまを、助けて。
雪が降りしきる。幾重にも頭から被いた衣を胸元にかき寄せる。
子供は赤くなった両手に息を吹きかけ、足をすり合わせていた。部屋の隅で膝を抱え、白に染まりゆく壁の外に耳を澄ませる。
「爺さま」と呼び実の祖父同然に慕っていた住職が身罷ったのは、およそ一月前のことだった。
持病もなく健康そのものであったのが、ある日の務め中に突然頭部を押さえて倒れ、こちらが唖然としている間に息を引き取ってしまった。
何が起きたのかわからなかった。少しずつ状況を認識するにつれ、深い悲しみと途轍もない不安に襲われた。遺体の傍らで幾日も泣いて過ごした。
やがて、悲しみは薄れずとも涙は枯れた。飲み食いを忘れていたからだ。少し冷静さを取り戻したが、それでも自分なぞに分かるのはせいぜい、亡骸をそのままにしておいてはいけない、という程度のことだけであった。
小さな体ではどうしようもなく、硬直が緩んできた老人の遺体に布をかけて何とか荷車に載せ上げた。それをほとんど引きずるのに近い形で、敷地内の墓地へと丸一日以上かけて運んだ。
無論、火葬する手立ても無ければ死装束を着せることもできない。住職が生前、予備として一つ掘っていた墓穴があったため、そこに亡骸を転がして収めた。地面が盛り上がるまで土を被せた後は近場からきれいな花を集めて墓前に供え、手を合わせた。
埋葬を終えると、いよいよ途方に暮れた。この寺には――否、おそらく今、この山中には、自分一人しかいない。
冷たい風が肌を刺す。
冬が来る。
雪が降る前に下山して、里人に助けを請わなければ。
例年であれば秋の終わりに住職と二人で麓へ下り、里長の屋敷に間借りして一冬を越す。そして、春先にまた戻ってくるのが慣習だった。
あの屋敷へ行って事情を告げれば、当面の間は世話になれるかもしれない。長年の親交がある住職の死を受け、墓だってもっときちんとしたものを拵えてくれるだろう。
数日分の食料を風呂敷に詰め、以前辿った記憶を頼りに山道を下った。
だが、半刻ほど下った辺りで道が寸断されているのに出くわした。雨の多い土地柄が災いし、知らぬ間にあちこちの土砂が崩れて地形が変わっていたらしい。慣れた道を行くのは断念する他なく、迂回して別の道を探した。
しかし行く手にはことごとく、断崖や急斜面や激流が立ちはだかった。子供の身ではとても渡れない。強行したとしても怪我を負って動けなくなる可能性が高いのは明白だった。
迂回に迂回を重ねるうち、下山はおろか元いた寺の方角すらも定かではなくなった。陽が沈みきり獣の気配を近くに感じる中、道中で捻ってしまった足を引きずりながらも寺へ戻ることができたのは、奇跡としか言いようがなかった。
その後、日を改めて数度にわたり下山を試みたが、いずれも失敗に終わった。その度に体力を大きく消耗するばかりで、小さな怪我も増えていく。
そんな日々を重ねるうち、いつしか下山という目標自体が、行動の選択候補から外れていった。思考は「どうやって麓に助けを求めるか」から「いかにして生き延びるか」へと切り替わっていた。
境内の畑から採れた作物が少しは残っている。山中をうろつけば木の実や茸、山菜もまだ残っている。
「爺さま」に教わった知恵を総動員することで、しばらくは飢えの惧れなく暮らすことができた。
少しでも里人の気を引けるよう、日に一度は焚火で狼煙を上げた。今にも麓から登ってきた者が通りかかりはしないかと、山門へも常に気を配っていた。
しかし、その兆しは一度たりとも訪れなかった。