蛮骨たちのいた地点から遥か遠くに飛ばされた凶骨は、先とは屋敷のちょうど反対側に位置する、庭に面した縁側の傍の草むらへ落下した。
衝撃のあまりしばらく気を失っていたが、やがて話し声が耳に届きゆっくりと覚醒する。
「う……」
呻き声とともに身を起こし縁側を見上げた凶骨の目に、墨染の衣を纏ったすらりとした背中と巨大な黒い翼が見えた。
「あれって……鴉天狗の」
そういえば自分が昼寝に入る少し前、情報屋が訪ねて来ていたような。
縁側に座すかさねに、煉骨が茶を出しているところだった。
出涸でがらしで悪いが」
「いや、十分だ」
そんな会話が聞こえてくる。
「おーい! おーい!!」
凶骨は二人へ向け、懸命に両手を振って叫んだ。

「……ん?」
湯飲みに口をつけようとしていた鴉天狗が、微かに目を開いて周囲をゆっくりと見回した。
「どうかしたか?」
気付いた煉骨が尋ねると、しばらく辺りに気を配っていた様子の襲は、少し首を傾けた後で頭を振った。
「気のせいだな」
茶をすすり、空を見上げる。
「明朝からしばらく雨になる。火器の手入れが必要ならば今のうちにしておいた方がいい」
「本当か、そりゃ教えてもらって助かったぜ。銀骨に造ってやった武器の材料で、もう少し何かいじれねえかと思ってたんだが」
その試作は火薬の手入れを済ませてからにした方が良さそうだと、煉骨は予定を練り直しながらうなずく。
ひとしきり考えをまとめた後で、彼はおもむろに天狗へ切り出した。
「ここ最近売ってもらった情報についてなんだがな」
襲が静かに目を向ける。
この数週間のうちに、凪を介していくつかの仕事情報を提供していたのだが、煉骨の顔はどこか気まずげだ。
「何か不足があったか」
「いや違うんだ。……今、ちっと懐が寂しくてよ。情報料は後払いにさせてもらえねえかと」
「そんなことか。それは別に構わんが……」
襲はわずかに逡巡した後で、
「なら、金はいいから読本よみほんを貸してくれ」
と言った。煉骨は面食らった様子で聞き返す。
「読本? そんなもんで良いのか」
「正直、金を持っていてもあまり使い道がない。人間の書物は存外に面白いし、たまには触れてみるのも悪くないだろう」
と、いつもながら全く面白くなさそうな顔で言われた煉骨は、一度自室へ向かうと葛籠つづらを抱えて戻ってきた。
「俺が持ってるのなんか、兵法書や武器の製法書くらいなもんだが」
それも荷物になるので、大概は読み終わったら必要な部分だけ書き写して金に換えてしまう。持ち歩いているのは特に重用している数冊程度だ。
「好きなの持ってって構わねえぜ。ほとんど頭に入ってるから、しばらく貸すくれえなら問題ない。あと、朔夜さくやの家にもそれなりに置いてきてるから、それも好きに読んで良いぞ」
「ほう、ありがたい」
声音と表情の割には本当に喜んでいるらしく、襲は渡された葛籠を開けて中身を確認し始めた。
一冊ずつ真剣に見比べている天狗を前に、煉骨は少し高揚したような面持ちを浮かべる。
脳みそまで筋肉でできたような輩が多い七人隊だ。たとえ妖怪相手でも、書物の内容について知的な語らいができるのは良い刺激になるかもしれない。
欠点は、目の前の男が何を話しても興奮や歓楽を感じさせないところだが。この際そこは目を瞑ろう。
葛籠から書物を取り出しては眺めていた襲が、底の方に他とは装丁の違う一冊を見つけた。
取り出されたそれを認め、煉骨はわずかに目を見開く。
「ああ、それは……」
適当な項を開いた襲は、ついと目を細めた。
つ国の言葉だな」
「読めるのか?」
「いいや、さっぱり」
少なからず期待を込めて聞いた煉骨はあっさり否定されて小さく肩を落とす。
「まあ、流石に西洋の文字は無理か」
「どこでこれを?」
煉骨は少しだけほろ苦い表情をした。
「前に、ジョージっていう異人の男と数日間だけ道中を共にしたんだ。その時にもらった」
「その男は国に帰ったのか」
煉骨の視線がわずかに外れる。
「……そのはずだったんだ。船に乗るからって、分かれ道で別れて。その後こっちの事情が変わって、もう少し一緒に旅ができそうになったから追いかけてみたんだが、その時にはもう……」
無惨な亡骸となった彼を発見した当時の思いが胸中に甦った様子で、煉骨は口をつぐんだ。
「そうか」
「最初から簡単な訳は書かれてたし、口頭でも訊いたから前半はだいたい理解できてるんだが、後半はそれもまばらでな。何とか解読する方法はねえかと、読むたびに考えるんだが」
煉骨の言を耳にしばらく書面に目を落としていた襲だが、ふと気配を感じて軽く視線を上げた。
煉骨の肩の後ろやや上方に、いつの間にか燐光に包まれた男性の影が現れていた。
身体の線に沿った馴染みのない黒い服装に、頭には帽を被っている。
彼の姿は薄ぼんやりと透けているが、青い瞳や整えられた髭と髪の金色はこの国の者では無いことを明確に示していた。
とすると、彼が煉骨の言う異人か。
異人の霊は穏やかな顔で煉骨を見ていたが、やがて襲の視線に気付くと片目を閉じて軽く帽を上げ、次いで頭を振って見せた。
「黙っていてくれ」ということなのだろう。
見たところこの世に縛られている様子はない。己の話をしているのを察し、興味本位で様子を見にきたといったところか。
煉骨に気取られないよう応じ、襲は書物に視線を戻しながら口を開いた。
「知り合いに西洋から渡ってきた妖怪がいる。そやつなら、あるいは訳せるかもしれん」
「えっ、本当か!」
煉骨が興奮気味に身を乗り出した。
万廃亜ばんぱいあという種の妖怪でな」
「廃品回収屋か何かか」
「いや、血を吸う鬼だから――ひる蝙蝠こうもりを足して人型にしたようなものといったところか」
襲の例えを忠実に再現した煉骨の脳内に、ひどく歪な怪物が誕生したようだった。若干面持ちが硬くなり、「本当に本を訳せるほど知能があるのか」と疑うそぶりを見せる。
しかし念願だった翻訳の糸口をみすみす逃す手は無いと、彼は意を決した様子で顔を上げた。
「その万廃亜ってやつに、訳してもらえるよう頼んでもらいてえ」
「ああ。承知した」

二人の会話を聞くうちに存在の主張を忘れていた凶骨が、そこではたと我に返って再び手を振り始めた。
「おーいっ、おーーいっ!」
だが、ことごとく虫の羽音や蛙の鳴き声にかき消されてしまう。
なおも夢中で声を上げ続けていた凶骨は、背後から迫る地響きに気付かなかった。
どどどどど、と彼方から土煙を巻き上げてこちらへ猛進してくる影がある。
「襲ちゃんが来てんのにぃぃぃ―――」
縁側の二人が同時にそちらを見た。
「なぁぁぁぁんで俺に教えねーんだよぉぉぉぉ!!」
凶骨がはっと頭上を仰いだ時には、目前に草履ぞうりの裏地があった。
――ぷち、と音がした。
「ふぎゃ!」
全体重で踏みつけられて、草履と地面の間に挟まれ、べちゃっと圧し伸ばされる。
その拍子に蛇骨がずるっと滑り、木の葉のようにぺらぺらになった凶骨の体は、蹴り上げられた草や土とともに空中へ飛び上がった。
そこからのほんのひと刹那の出来事は、ひらひらと舞い落ちる彼の目にひどくゆっくりと映った。

蛇骨が何もないところでつまずき、派手に体勢を崩した。衝撃で草や小石が宙に飛び散る。
「おおお!?」
非常に不安定な姿勢で勢いを消すことができぬまま、縁側に座す二人のもとへ突っ込んでくる。
煉骨がぎょっと顔を引きつらせる横で、眉一つ動かさない襲は洋書に被害が及ばぬよう、開いた状態のままさっと頭上に持ち上げた。
瞬間、今まで書物があった場所に蛇骨がめりこむ。
襲も煉骨も蛇骨に気を取られていたため、まさにその時ひらりと薄いものが、頭上で開かれた項の間に滑り込んだことに気付かなかった。
襲はそのままぱたんと書物を閉じ、腕を下ろして脇に置く。
ふと視線を感じて目を向けると、異人の霊が何か言いたそうに身振りをしていたが、現世うつしよにいられる時間が尽きたのかその姿は風にとけて消えてしまった。彼岸に戻されたようである。
異人の動作の意味を図りかねていた襲だが、やがて考えてもらちが無いと判断し、蛇骨を覗き込んだ。
衝撃の余韻が残っているのか、今なお彼は天狗の腹のあたりに突っ込んだまま起き上がれずにいる。
「大…丈夫か、蛇骨」
「へーきへーき。襲ちゃんが守ってくれたから」
よろよろと親指を立てる蛇骨に、襲は首を傾けた。守ったのはどちらかというと本の方で、蛇骨に対しては何もしていないのだが。
「てめえ、ジョージにもらった本が傷ついたらどう責任取りやがる!」
眦を決した煉骨が蛇骨の頭を手加減抜きに殴った。
「いてえっ、悪かったってー」
そう言いながらいつまでも天狗の腹から顔を上げない蛇骨に、煉骨が息巻いたまま呆れ顔を向ける。
「おい、いつまでそうしてんだ」
よく見ると蛇骨は鼻の下をだらしなく伸ばして襲の腰回りを撫でているのだった。
「いやなあ。この腰の細さがたまらねえんだよ。それでいてひょろひょろってわけでもなく、大兄貴とは一味違うしなやかさというか、うーんこれは触らないと分からない。兄貴もほら、ここからここにかけて触ってみ? 病みつきになるぜ」
蛇骨の熱い評論を聞いて煉骨は背に悪寒が走ったような顔をした。
「……襲、こいつが目に余るようならいつでも消し炭にして良いからな」
自分の貞操は自分でなければ守れないぜと、煉骨がいやに真剣な目つきで言うので、襲はこくりと頷いた。

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