右手の廊から手当たり次第に部屋の中を物色していた煉骨と睡骨もまた、いまだ目ぼしい掛け軸は見つけられずにいた。
恋慕、嫉妬、憤怒、孤独、享楽……様々な感情を映し出す掛け軸をひとつひとつ確認していくのは予想していた以上に骨が折れる。
「今、何部屋目だ」
「悪いが二十を超えてから数えてねえ」
奥に深く続いている書庫の中を手分けして探しながら、二人は気の遠くなるような感覚に陥っていた。
これは少しまずい。ふわふわとした意識状態で確認作業を進めては、仮にすぐそこにあったとしても見逃してしまう可能性がある。そうなったら目も当てられない。
そう考えた煉骨は提案を口にする。
「この部屋が終わったら、ちっと休け――」
その時、目前の掛け軸から突如何かが飛び出してきた。
「のおぉっ!?」
あやうく正面衝突しそうになるも、紙一重で飛びのいて事無きを得る。
飛び出してきたのは老人のような顔をした男で、一瞬人間かのように見えたが、よく見ると下半身には足が無く、尾のようにしゅるりと空中を漂っていた。
「よ、妖怪……!?」
弾かれたように二人は身構えたが、煉骨にぶつかりかけた妖怪は驚いた様子で彼らを注視するばかりで、襲ってくる気配はない。
「おやぁ、人間がこんなところにいるとは珍しい……驚かせちまって失礼失礼」
「え? あ、いえこちらこそ」
頭を掻いてぺこぺこと頭を垂れてくるので、思わずつられて煉骨も頭を下げた。
「そいじゃ」
ひょいと片手を振り、背を向けた妖怪はさっさと行ってしまった。
よく見ると反対の手に、何か布のかたまりを引っ提げている。
例えるならば――枕のような。
「……」
「……」
煉骨と睡骨は黙ってその背を見送った。
「なあ、あれって……」
「ああ、俺も同じことを言おうと思ってた」
遠ざかっていく妖怪から鼻歌が聞こえてくる。

今宵は良い夢見つからぬ~
枕を返せば夢が覚め~
口惜しがる様 愉快なり~

二人の目が苛烈に光った。
どどどど、と迫る足音に振り向き、背後から先の男たちが鬼面の下にもの凄い眼光を覗かせて追いかけてきているのに気付いた妖怪――枕返まくらがえしは、ひくりと息を呑んだ。
「待ちやがれ!」
「なななっ、なんじゃ!?」
全力で逃げ出す枕返しを、目を血走らせた煉骨と睡骨が追う。
奴が此度の騒動の元凶だ。地の果てまでも追い詰めて、目に物見せてやらねば気が済まない。
ひょろひょろと尾のような下半身をくねらせ飛んでいく枕返しは、適当な部屋に滑り込み、目についた掛け軸の中へ逃げ込んだ。
「この野郎……!」
掛け軸の絵の中で枕返しがひょろひょろと宙を舞い、その下では彼を目撃した夢の主と思われる老人が仰天顔で腰を抜かしている。
「ちっ」
自分たちも中へ侵入しようかと一瞬考えたが、もっと手っ取り早い方法が脳裏にひらめき、煉骨は腰に下げた瓢箪を取り上げた。中には着火用の油が入っている。
「出てこねえなら、このまま掛け軸ごと焼いてやる」
その場合夢の主がどうなるかはわからないが、知ったことか。
先端を油に浸した着火剤に小さな火を灯すと、絵の中の枕返しがぎょっと目を剥いてこちらを見た。
煉骨が悪党のごとき性悪な顔つきでにんまり笑う。
掛け軸の隅にあわや炎が燃え移ろうかという間際、泡を食った様子で中から飛び出してきた枕返しを、睡骨が飛びかかって羽交い締めにした。
「きっ、貴様らなんと恐ろしい所業を……!」
「どうせ焼けるみてえな消え方する掛け軸だろうが。物理的に燃やすのと何が違う」
「全然違うわい馬鹿者!」
枕返しはしつこく身をよじって睡骨の腕を抜け出すと、煉骨の頭を枕の角で殴りつけて再び逃走を図った。
「てんめえぇ!」
ふつふつと怒りをたぎらせ、鬼面の下で般若の形相を浮かべた煉骨と睡骨は再びその後を追う。
煉骨は懐から小さなつぶてをいくつか取り出し、簀子縁を逃げ惑う枕返しの背中目がけて投げつけた。
だが枕返しはひょいと身を躱し、対象を失った礫はそのまま床や壁へぶつかって弾ける。中に詰められた油が辺りに飛び散った。
「のわああああ!」
悲惨な叫び声をあげたのは睡骨である。
奇しくも曲がり角が一面油の海となり、そこへちょうど足を踏み入れてしまった睡骨が盛大に滑って転んだ。
べしゃっと顔面を床に打ち付け、そのまま簀子から床下の水面に滑り落ちかけて、慌てて手甲の爪を床板に突き立てる。
ががが、と深い溝を刻んで何とか止まるが、胸から下は完全に水没してしまった。全く足がつかない深さと刺すような冷たさに悪寒が這い上がる。
「煉骨! 手え貸してくれ」
引き上げてもらわねばと煉骨を呼ぶが、見ると彼は肩を震わせて顔を赤くしている。
「おま……」
「い、いや。何でもねえよ? すぐ引き上げるって」
そう言って煉骨は睡骨の手を引っ張ろうとするも、しきりに顔を背けるのでなかなか腕に力が入らないようだった。
睡骨は信じられない思いで煉骨を見た。こちらは今にも水の底へ落ちようとしているというのに、あろうことかこいつは、いい歳をこいた大の男が無様にすっ転んだのを目の当たりにして笑いが止まらないでいるのである。
睡骨の頬がかっと赤くなった。
「てっ、てめえのせいでけたんだろうが!!」
「わ、わかってるって。それは悪かっ……くく」
笑いを収めようとしきりに深呼吸しながら煉骨が引き上げると、睡骨は恨めしげに彼を睨み据えた。
「……枕返しの野郎は」
「あっちの……突き当たりの部屋、に……ひぃ…」
笑い過ぎて目尻に涙まで溜めている煉骨の頭をぽかりと叩き、睡骨はその部屋を目指して走った。足の裏に油が残っているので、小走りに走った。
突き当たりの部屋に続く板戸は他の入り口に比べるとかなり簡素で、明らかに後付けされた雰囲気が漂っていた。
躊躇なく引き手を掴んで開け放つと、これまでには無かった生活臭のようなものが鼻をつく。
「あいつの住処か」
睡骨に遅れて部屋に踏み入った煉骨が、注意深く周囲を探る。どうやら笑いは収まったらしい。
さほど広くない部屋の中は異様な光景だった。
床の全面に敷き詰められるように、無数の枕がある。それだけでは飽き足らず、四方の壁も覆い尽くさんばかりに枕がうず高く積み上がっていた。
それらの中心に、憎き枕返しが佇んでいる。
「ついに追い詰めたぜ」
「しっ、しつこい奴らめ……!」
退路を断たれた枕返しは、困惑した表情で不審者たちを睨んだ。
「なぜ吾輩わがはいを追ってくるのじゃ、人間ども!!」
「てめえがやらかした事のせいで、こっちはいい迷惑なんだよ!」
怒声とともに睡骨が枕返し目掛けて鉄爪を突き出した。枕返しはすんでのところで回避し、鉄爪は彼の背後の壁に突き刺さる。
「ちっ、部屋が狭くて戦いにくい……」
忌々しく吐き捨てると睡骨は壁から引き抜いた爪を手元から外す。
「丸腰で戦うってのか」
「ふっ、武器ならあるだろ」
にやりと笑い、睡骨は足元を隙間なく覆っている枕をむんずと掴み上げた。
「大人しく引導を渡せやおらあぁ!」
怒号とともに全力投球された枕は、まっすぐに枕返しの顔面へめり込んだ。
「っ――!」
しばし静止した後にぐぐ、と力を込めて顔の中心に刺さった枕を引き抜き、鼻先を赤くした枕返しは口の端を引き上げる。
「おもしろい……よもやこの吾輩に枕投げを挑む者がいようとは」
「ちょっと待て何が始まるんだ」
「受けて立とうではないか!」
煉骨の問いに答える声は無く、代わりのように横っ面に枕が叩きつけられた。
煉骨の体が跳ね飛び、首が寝違えたように変な方向へ曲がる。
霊体だけの状態にも関わらず、体内で、明らかに鳴ってはいけない音がした。
「あっ……あぁっ……」
うずくまって首を押さえながらこの世の終わりのような呻きを漏らす煉骨に、睡骨が舌打ちする。
「何やってんだ、今のは避けれただろ。鈍ってんじゃねえか煉骨」
「に、鈍るって何が…!? 何が鈍ってたの俺……?」
「戦力外ならその辺で小さくなってろ。射線を遮るんじゃねえ!」
「……はい」
煉骨はよろめきつつもできるだけ部屋の隅へ隅へと避難する。
背後では睡骨と枕返しの熾烈な攻防が展開していた。
「人間のくせに中々やるのう! その身のこなし、只者ではないな!」
「そういうてめえは攻撃が一辺倒だぜ! それで枕の字を冠するたぁ肩腹痛え!」
「ぐぬぬ、言うたな小童め!!」
何やら熱い会話とともに投げ合いが繰り広げられている。
身を低くした煉骨は、蚊帳かやの外に置かれたような心境で部屋を飛び交う枕の応酬を眺めていた。右へ左へと視線を動かすうちに思考がぼんやりしてくる。
(あれ、何しに来たんだっけ)
遠路はるばるこんな異界へ。枕投げをしに来たわけでは無いはずなのだが。
だんだんと全てがどうでも良くなってきた煉骨は、夢の世界にいながら現実を逃避することにした。
「あー、この枕は高さがちょうど良さそうだ。でも中身はこっちの方が好み……」
部屋中の枕から自分好みのものを探し始める。
「おお、これ良いな。あっちに持って帰れたら良いのに……」
お気に入りを見つけてしみじみと呟いた瞬間、飛んできた流れ枕が後頭部を直撃して前のめりに吹っ飛ばされる。声を上げる間もなく壁に叩きつけられ跳ね返り、煉骨の姿はそのまま枕の海に沈んだ。
「はっ」
「でや!」
視界の外で煉骨がどうなっているかなど気にもせず、睡骨と枕返しは華麗な体さばきで激戦を続けている。
「そこだ!!」
睡骨は枕返しが投げてきた枕にこちらの投げた枕をぶつけることで相殺し、その一瞬の隙をついて妖怪の懐に飛び込んだ。
至近距離に肉迫すると、顎目がけて下から拳を叩き込み、間髪入れず振り上げた枕でぼこすかと枕返しを滅多打ちにする。
「ぬあぁ!」
枕返しは反撃する暇も与えられず、一方的に殴打の餌食となるしかない。もはや勝敗は明らかだった。
「み、見事……」
破裂した枕の中身が舞い落ちる中、枕返しは賞賛の言葉を呟くと同時に、どさりと倒れ伏した。
「ふっ、てめえも中々だったぜ……なあ煉骨」
睡骨が額の汗を拭い仲間の名を呼ぶも、返事がない。
「煉骨?」
首を傾げた直後、足元の枕の下からくぐもった呻き声が漏れ聞こえた。

完敗を認め殊勝な態度になった枕返しの言によると、彼は枕を返した夢の記録を「枕返し記録帖」なるものへ律義に書きつけており、それを確認すれば凶骨の夢があった部屋もわかるだろうということだった。
「吾輩が枕を返したせいで夢と現が入れ替わったとは……」
まったく知らなかったらしく、枕返しは腫れあがった顔で大層申し訳なさそうにこうべを垂れる。
「はた迷惑な話だぜ、ったく」
二人に眼光鋭く睨まれた枕返しは急いで「枕返し記録帖」を書棚から引っ張り出し、ぱらぱらと捲り始めた。
「三日前……となると……」
ぶつぶつ呟きながらしばらく項を目で追い、やがて「あった!」と声を上げる。
「やはり、ここからさほど遠くないわい。案内しよう」

 

 

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