枕返しの後に付いて回廊を進んでいた煉骨と睡骨は、目的の部屋の前で、向こうの角を曲がって来た霧骨たちにばったり出くわした。
「なんだ、結局同時に辿り着いちまったな」
「つうことは、そっちもこの部屋だって突き止めたのか」
霧骨は煉骨たちの前に浮遊している奇妙な男を見上げる。顔が痣だらけで、何だかとても満身創痍に見えた。
「ほう、枕返しを捕らえたか」
欄干にとまった襲が感心した風情で呟いた。
「こ、これは…鴉天狗殿もいらっしゃるとは……」
枕返しは恐縮しきった様子で襲に頭を下げた。
「そっちのそれは?」
煉骨の指が、霧骨が手にぶら下げている兎ほどの大きさの獣を指す。
「俺らもこいつに掛け軸の在処を探らせたんだ。獏っていう、夢を喰う妖怪なんだと」
「えっ、これが獏!?」
煉骨は書物の中で名前だけは見たことのある妖怪を目の当たりにして、好奇心を刺激されたように目を輝かせた。
一方の獏は半眼になって「これ言うな」と抗議する
合流した一行が眼前の襖を開け放って部屋に踏み入ると、目当ての掛け軸はすぐに見つかった。広々とした部屋の中には、その掛け軸だけが飾られていたのだ。他の夢たちが朝には目覚めていく中、凶骨の夢だけが取り残されていたためかもしれない。
掛け軸の絵を確認すると、他に類を見ないほど巨大な体躯の大男が描かれている。周囲を料理の大皿が夥しく取り囲んでおり、大男はその中央で幸せそうな顔をして寝ているのだった。
「ああ、どっからどう見ても凶骨だ」
感慨深く頷く霧骨の掌で、凶骨も目を輝かせた。
「これでやっと元に戻れる……」
襲が人間たちを見上げた。
「俺は邪魔が入らぬようここで見ている。いいか、凶骨を本体に触れさせたら、すぐに掛け軸から出てこい」
「すぐに?」
「魂が本体に戻り次第、現世の方で覚醒するはずだ。つまり、夢が覚める」
掛け軸の中に留まっていれば、夢もろとも消滅することになる。
煉骨、睡骨、霧骨の三人はわずかに緊張を滲ませて頷いた。
妖怪たちが見守る前で、彼らは霧骨を先頭に、掛け軸の中へ飛び込んでいった。
掛け軸の中に投身した瞬間は全身がふわりと浮き上がるような感覚があったが、それが過ぎると周囲には現世と見紛うほどそっくりな景色が広がっていた。
ずっと暗闇に覆われた世界で過ごしていたので、窓から室内に注ぐ陽光が眩しい。寸の間、現世に戻ってきたのではないかと錯覚しそうになる。
それでもここに存在する物や空気がどこか無機質に感じるのは、あくまで凶骨の記憶をもとに造られただけの『夢』に過ぎないからなのだろう。
現に彼らの目の前には、現実ではありえない光景が広がっていた。
天井が高く広々とした座敷の中、山と積まれる食べ物の数々。炊き立ての米に熟した果実、魚介や野菜鍋と、季節を問わず旬のものが所狭しと視界を覆い尽くしている。
「これは……凶骨にとっちゃ天国だろうな」
食材や料理の数々を眺め渡して、煉骨は引きつった笑みを浮かべた。
確かに美味そうではあるが、これだけ多いと食欲より先に胸やけがしてくる。
「いた、凶骨だ」
はてしなく広大な室内をさまよい歩いていると、ふいに霧骨が声を上げて前方を指さした。
食べ物の山の脇に、巨大な体躯が横たわっている。
膳や皿の間を縫って三人が駆け寄って見てみると、凶骨の本体は眠りこけて規則正しく鼾をかいていた。
飲まず食わずでいたためか若干やつれて見えはするが、それ以外にこれといった異常は見当たらない。
ほっと息を吐いて、霧骨は肩に乗せていた小さい凶骨を床に降ろす。
「あとはお前が本体に触りゃ一件落着ってわけだ」
凶骨は大きく息を吸い込んで、眠り続ける己を見上げた。
これまでの現実離れした出来事の数々が走馬灯のごとく胸中に甦る。
「俺の体……」
万感の思いを込めて両手を伸ばし、本来の体に触れた。
すると触れた個所から淡く燐光が溢れ出て、大小それぞれの凶骨の体を包み込んだ。
燐光が全体を覆い尽くすと同時に、目の前にあった凶骨の本体が忽然と消失する。食べ物の皿で満たされた空間の中、そこだけぽっかりと穴が開いたように畳が覗いていた。
「でけえ凶骨が消えちまった」
「襲の言葉通りなら、現世に戻った……のか?」
「たぶんそうだと思う」
三人に背を向けたまま、残された小さな凶骨が頷いた。
この姿になってから、これまでどこか心許ない感覚で過ごしてきたが、本体との繋がりを取り戻した今は身の内に芯のようなものが宿っている気がする。
もう大丈夫だと、なぜかわからないが確信めいたものを感じるのだ。
「三人とも、俺なんかのために苦労かけちまったな」
文句も言わずにこんなとんでもない場所まで同道してくれた。
わずかに熱くなった目頭を押さえて、はは、と笑う。
「俺、あんまり役に立てねえし、七人隊にとってお荷物じゃねえかと思ってた。でも、大兄貴もみんなも俺のために真剣になってくれて、体張ってくれて。なんであんな馬鹿なこと考えてたんだろうって、目が覚めたぜ」
これからは今まで以上に身を尽くして、仲間たちのために頑張ろう。
「みんな、ありがとよ」
そう言って静かに振り向いた先には――誰もいなかった。
視界の遥か彼方に、来た道を全力疾走していく三つの姿が見えた。すでに米粒のような大きさになるほど遠く離れており、こちらを振り返りもしない。
「……」
彼らの目指す先には夢浮橋へ戻るための出口がある。
まあ、わかる。襲もすぐ戻って来いと言っていたし。
でも。
「もっとこう……」
誰に聞かれることも無い呟きは、夢を消滅させる白い光に呑まれてかき消えた。
煉骨、睡骨、霧骨の三名が飛び出した直後、掛け軸が燃え尽きるように上下の端から消え失せた。まさに間一髪である。
「上手くいったようだな」
掛け軸の移り変わる絵でだいたいの状況を見ていた襲と妖怪二匹が三人のもとへ歩み寄る。
「小さい凶骨は夢と共に消失し、現に戻って本来の姿で目覚めているだろう」
ぜえぜえと九死に一生を得た顔で息をしていた三人は、ひとまず目的を果たせたことに安堵する。
「じゃあ、俺たちも現に戻れるんだな」
睡骨の確認に襲がこくりと頷く。
「夢の渡しまで戻る必要はあるが、それで終いだ」
「あのう、吾輩たちはもう帰っても……?」
おずおずと問うてくる枕返しに襲は言い渡す。
「今後は己の所業の顛末を確認することだな」
枕を返すな、と言うのは枕返しにとって死を宣告されるのと同義なので、ここは「己の所業に責任を持て」と言う他ない。
「は、はぁ。この度はご迷惑をおかけしました」
ぺこと頭を下げると、枕返しは逃げるように姿を消した。
「鴉天狗! 約束通り、そのうち夢を喰いに行くからな!」
獏も襲をびしりと指さし、返事を待たずするすると柱を上って天井裏へ消えていった。
妖怪二匹がいなくなった部屋で、煉骨たちはほうと息をついた。どっと疲れが押し寄せてくるが、現世に帰るまで気を抜くことはできない。
「少し休んでいろ。帰り道の方向を確認してくる」
そう言って襲が部屋を出て行った。
三人は床に座り込んで、掛け軸の消えた壁をぼんやりと眺めた。
現世でどのくらいの時間が過ぎたものかわからない。もう夜は明けているのだろうか。帰って早く眠りたいが、夢は当分見なくても良いな。
そんな話をしていた時、部屋の外でがたんと音がした。
襲が戻ったのだろうかと障子戸を開けて室外を見てみると、簀子を数歩進んだところに一匹の幻魎が立ち止まっていた。
横に衝立が倒れているところを見るに、どうやら歩んでいる最中にぶつかったものらしい。
幻魎はしばし静止していたが、やがて何事も無かったように再び歩みを再開した。衝立を元に戻そうとする様子も無いので、やはり意思も思考も持ち合わせない存在なのだと再認識してその背を見送る。気配さえ悟られなければ楽なものだ。
そう思いながら去りゆく幻魎にばかり気を取られていた彼らは、背後から近づく影に気付いていなかった。
「ひぇっ!!」
足音もなくいきなり後方からぬっと現れた別の幻魎に霧骨が肩を跳ねさせ、そのはずみで異形が纏う白い衣の裾を踏みつけてしまった。
体勢を崩した幻魎がよろめいて鋭い爪が空を掻いた拍子に、霧骨の鬼面を結ぶ紐を掠める。
「あ」
瞬きとともに、紐を断ち切られた鬼面がぽろりと顔から落下した。簀子に転がる乾いた音がやけに大きく反響する。
「……」
霧骨は金縛りにあったように身を固くし、幻魎の昏い眼窩としばし見つめ合った。
『……い…る』
幻魎の洞のような口から、言葉とも音ともとれない軋んだ唸りが響き漏れる。
『ここにも……ここにも……いる……』
ついと長い指が順に指し示す先には、まさしく煉骨と睡骨がいた。
二人も言葉を失って硬直する。
把握されてしまった。鬼面に施されていた術の効力が消えたのだ。
立ち去りかけていた前方の幻魎もまた、気配に気付いたのか動きを止め、ゆらりとこちらを振り向く。
『にんげん……』
『にんげん、の……たまし…い……』
幻魎たちの落ち窪んだ眼窩の奥にぼうと赤い光が宿り、侵入者たちを凝視した。
たかたかと小さな足音を立てながら廊の角を曲がって戻ってきた鴉が、その光景を認めてぴたりと歩みを止める。
「……ちとまずいな」
とても静かに襲が呟いた一言を、三人は聞き逃さなかった。