「うわあああああああああ―――!!」
絶叫とともに大の男が三名、激しく床板を踏み鳴らして簀子縁を駆け抜ける。
考える余裕も無いまま、襲の示した方向へ言われるままに走る。いつの間にか遥か遠くには天を貫く光の柱が生じており、その根元までたどり着けば現世うつしよへ続く入り口が開いているという事だった。
二足歩行から四足で這うような姿勢に転じた幻魎げんりょうたちは、先ほどまでのゆったりとした動きが嘘のような速度で猛然と追いかけてきている。
気配を察した別の幻魎の群れも後から後から合流し始め、白い波のようにひしめき徒党を組んでいた。
眼窩の奥の赤い光を爛々と輝かせ、口から耳障りな鳴き声のようなものを発し、這いずった後の床は爪で痛々しく抉られている。
すだれ几帳きちょうを薙ぎ倒し、踏み荒らして破壊しながら、幻魎たちは人間に追いすがった。
襲が幾度か術による障壁を構築して足止めを試みたが、後から後から増えていく幻魎たちの数に反比例するように、持ちこたえる時間が削られてしまう。
睡骨の肩に後ろ向きでとまり術を放っていた襲が、ううむと右の翼を握ったり開いたりしつつ首を傾ける。
「この程度もはらえんとは。やはり、形代かたしろを介した上に鴉の状態では大した力が使えぬようだ」
「冷静に分析してる場合かー!! 何か助言っ、助言を!!」
「……走れ、としか」
ぐぬぬと歯噛みして、煉骨と霧骨が現世から持ち込めた数少ない武器を手当たり次第投げつけるが、毒も火薬も幻魎たちには全く効果が無いようで、わずかの足止めにもなりはしない。
かといって近接戦闘の睡骨が奴らの群れに正面から突っ込もうものなら、あっという間に取り囲まれて魂を食われてしまうだろう。
他に手もなく、彼らは無我夢中で光の柱を目指して回廊を疾走し続けた。
先ほどから全力疾走してばかりなので、そろそろ足がもつれ息もあがってくる。しかし背後には得体の知れない化け物の群れ。意地でも速度を緩めるわけにはいかない。
「俺、俺……もう無理……」
「根性見せろ霧骨!!」
ひぃひぃと酸欠のような状態になって今にも倒れそうな霧骨を、自分もそれどころではない煉骨が叱咤する。
「見えたぜ! 柱の根元だ!」
いくつ目になるかわからない角を曲がった瞬間、睡骨が叫んだ。眼前に姿を現した光の柱に、煉骨と霧骨の顔もぱっと輝く。
だが、幻魎たちの爪はすでに彼らの背中にかかろうとしていた。
頭上から爪が振り下ろされるのを肩越しに視認し、背筋を氷塊が滑り落ちたその時、睡骨の肩から羽ばたいた鴉が人間たちと幻魎の間に滑り込み、渾身の力で障壁を張った。
不可視の壁に幻魎たちが阻まれ、渡殿の上をもんどり打つ。数匹は水の中へ落ち、そのまま上がることなく沈んでいった。
一度の防御で障壁は粉々に砕け散る。
「今のうちに出口へ走れ」
そう告げると襲は柱と反対方向へ飛んでいく。妖力に加え霊的な力をも宿している鴉に反応して、幻魎たちの意識がそちらへ向いた。
『あれは……なん、だ……』
『くらえ……くらえ』
その隙に三人は出口へ駆ける。
あとわずかの距離まで近づいた時、後方で、ばき、と音がした。
はっと振り返った彼らの目に、無数の細長い腕に捕らえられた鴉が噛みつかれ、鋭い爪でばらばらに引き千切られる姿が見えた。
「か、襲……!」
めきめきと骨を砕く音とともに黒い羽根や血液が撒き散らされて幻魎たちの上に降り注ぎ、渡殿一帯をどす黒く染める。鴉の残骸は血潮に群がる無数の幻魎にたちまち覆いつくされた。
三人は色を失ったが、直後に襲の声が頭の中に響いた。
『俺がかばえるのはここまでだ。奴らが追いつく前に早く現世へ』
「無事……なのか?」
形代の鴉は目の前で無惨に食われてしまったが、現世の襲には影響が無かったらしい。
残り半町ほどとなった道のりを急いでいると、鴉を咀嚼し終えて全身を血潮に染めた幻魎たちが再びこちらに狙いを定め追いかけてくる。
彼我の距離は瞬く間に詰められようとしていた。霧骨が情けなく悲鳴をあげ、睡骨と煉骨は青くなって歯噛みする。
「ちくしょう……!」
再び追いつかれるかと思われたその時、幻魎たちの身体にぴしりと亀裂が走った。
『グ……グ…ガ…ァ…』
いびつな呻き声とともに鴉の血で濡れた口元からばたばたと青い液体が吐き出された。一様に痩躯そうくを折り曲げて苦しみ、くずおれる。
「け…が……れ……」
身の内側から崩壊するかのように手足の末端からぼろぼろと砕け、不快な断末魔を響かせた幻魎たちは、やがて動かなくなる。
しゅうしゅうと黒い煙を立ち昇らせる残骸を前に、三人は呆気にとられた。
「よ、よく分からねえが助かった……」
きびすを返して最後の浮橋を一息に駆け抜ける。水面が波打って足元が不安定になるが、気合いで完走した。
浮橋を越えて目前に迫った光の柱に睡骨が手を伸ばす。触れた直後、彼の姿が掻き消えた。
霧骨もそれに続いて柱に飛び込み、煉骨もまた、あとほんの数歩で柱に身を投じることができる距離へ到達する。
だが、煉骨は突如として何かに足首を掴まれ、前のめりに床板の上へ倒れた。
「ぐっ――!」
胸を打ち付けた衝撃で小さく息を詰めながら足元を見ると、何も無かったはずの床に黒い淵が湧き立ち、そこから這い出した新たな幻魎が、小枝のように細長い指で左の足首をがっちりと捕らえていた。
「うわあああ!? はっ、放せ! くそっ、糞野郎……!!」
蒼白になり、自由な方の足を使って夢中で蹴りつけるが、幻魎は狼狽うろたえた様子もなく煉骨の喉元に爪を伸ばしてくる。開いた口には鋭い牙が醜く生え揃い、魂をほふよろこびに歓喜しているかのように小刻みに震えていた。
「嘘だろ……」
凶骨も、他の二名も無事に戻れたというのに、自分だけこんな世界に取り残されて、こんな意味も分からぬ異形に喰われて死ぬのか。
あと数歩。あと数歩で光の柱に手が届くというのに。
歯の根がかちかちと情けない音を立てる。
床を這うように腕へ力を籠めるが、幻魎の手は容赦なく煉骨の足首を捕らえ、ずるずると己の方へ引きずり寄せる。
掴まれた箇所が氷のように冷たい。
「たっ、助けてくれ――!」
鼓動が突き破らんばかりに胸を叩く中、呼吸を引きつらせながら必死で叫ぶ。誰か、誰でもいい。
伸びてきた幻魎の爪が、首を回り込んだ。

――刹那、目の前にまばゆい光が弾ける。

煉骨が反射的に目を細めた寸の間に、足と首に纏わりついていた冷ややかな気配が離れ、同時にぐいと強く腕を引かれた。瞬きのうちに身体が持ち上げられる。
はっと振り返ると背後に本性の姿に戻った襲がいた。彼は幻魎を風刃ふうじんで真っ二つに叩き斬ると、視線を煉骨を越えてさらに前方へ注ぐ。
「礼を言う。至らず申し訳ない」
「え……?」
いったい誰へ言っているのかとその視線を追って、煉骨は大きく目を見開いた。
煉骨の前に生じた光の中には、人が――男が、いた。
小柄な体躯に、見慣れない形の衣服。自分たちより白い肌に、この国のものではない髪や瞳の色。
目の前の人物は襲に向けて気にするなというように片手を挙げ、次いで煉骨をしっかりとその双眸に収めた。
「あ……」
目が合った途端、胸の奥に怒涛のような感情と、つきりとした痛みが込み上げた。
彼の手には見覚えのある脇差が握られ、今の今まで煉骨の足を掴んで放さなかった幻魎の腕に深々と突き立てられている。
刃で地に縫い留められた幻魎は、身体を二つに裂かれてもなお激しくのたうっていたが、次第にその輪郭を薄れさせていった。
「っ――! じょっ……」
込み上げる感情のままその名を叫ぼうとした煉骨だが、襲に片手で口を塞がれる。
狼狽する煉骨を見つめた男は目を細めると、にっこりと微笑んで口元に人差し指を当てた。
「ここで名を呼んではいけない。魂が離れられなくなる」
そう言うと襲は男に目礼し、煉骨を抱えて現へ続く光の中へと身を翻した。有無を言わさず肩の上へ担がれた煉骨の視界に、黒い淵から新たな幻魎が次々と這い出すのが見えた。
境界の光に触れた途端、周囲に広がっていた夢浮橋の景色がおぼろげになり、落ちるような感覚を伴って急速に遠ざかっていく。
「待っ……!」
煉骨がまだ後方に見えている彼の姿に手を伸ばした瞬間、二つの界を結ぶ入り口がふつりと消失した。

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