領主のもとへ赴く煉骨たちと別れた蛮骨と霧骨は、特にこれといってすることもないため一足先に翔馬の家へ行って彼らの帰りを待つことにした。昨日歩んだ道をかなり引き返すことになるが、蒼空に乗ればさほどの時間をかけず移動が可能だ。
狼の背から転げ落ちる霧骨を何度か回収した後、昨日ぶりに訪れた翔馬宅の戸口を叩くと驚き顔の八雲が出迎えた。もう泣いてはいないが、目の際が赤く腫れている。
翔馬から大方の事情は聞いていること、彼が領主のところへ羽衣を取り戻しに行ったことを告げると、彼女は手数をかけたことを詫びて二人を家へ上げてくれた。
頑なに家の戸を閉ざし口もきかずにいたところ、翔馬は「羽衣を取り返してくる」と言い残してどこかへ駆けて行ってしまったらしい。
「ご領主様のところへ行くのは……危険なことでしょうか」
亭主の所在がわかり安堵した半面、新たな心配ができてしまった様子で、湯飲みに茶を注ぎながら八雲は不安げに問いかける。
「どういう策で取り返そうとしてるのか俺らはよく知らんが、謀ってる事がばれりゃあ首を刎ねられるかもな」
蛮骨の淡々とした返しに口元を手で覆う八雲を、霧骨が嘆息混じりになだめた。
「心配しなくても、俺らの仲間がついてんだ。雲行きが悪いと見りゃあ、大事になる前にとっとと逃げて来るさ」
霧骨はこの時間を利用して薬を調合する気のようで、風通しを良くした土間に薬研を据えて昨日摘んだ紫の花を擂り潰している。その手を止めることなく「そうだ」と続けた。
「あいつらが戻るまで暇だし、八雲さんがいた天の世界ってのがどんななのか教えてくれねえか」
霧骨の言に蛮骨も眉を上げる。
「こっち……あー、地上? と結構違うのか?」
八雲はこくりと頷いた。「全てはお教えできませんが」と前置いてから口を開く。
「まず、私たち天人はみな『沙羅双樹』という一対の樹から生まれます」
「は」
「樹?」
「正確には、樹の枝に咲く花から、ですね」
早くも二人はぽかんとした。
沙羅双樹とは「何々物語」だとかの一節に出てくるあれのことだろうか。琵琶法師などが往来に人を集め弾き語っているのを数度耳にしただけなので、内容はほとんど知らないが。
「私たちは生を受けた直後こそ幼いですが、すぐに今と同程度まで成長します。生まれた時から階位が定められているので、それに従って尊き方々にお仕えするのです」
「はあ。なら、親とかそういう概念は」
「地上の皆さんでいうところの、肉親のような存在はありません。沙羅の樹が皆の生みの親で、同じ樹から生まれ出でた皆は姉妹です」
姉妹と言い切るからには、樹から生まれる大半が女――天女ということなのだろうか。
父母を必要としないのなら、その前段階である恋慕も契りも無用のものだろう。
それが当たり前の世界で生きてきた八雲が翔馬と夫婦になることを受け入れるのは、相当な価値観の転換だったと思われた。
蛮骨がううむと唸って理解に時間をかけていると、霧骨が薬研から顔を上げる。
「失礼な事聞くが、八雲さんは今いくつなんだい」
彼女は気を害した様子もなく、頬に手を当てて考える。
「翔馬さんと出会った年がちょうど二十の節目でしたから……今は二十四、ですね」
とすると、概ね見た目どおりの年齢ということになる。
寿命や歳の取り方は地上の者と変わらないのかと蛮骨が続けて問うと、
「あちらは地上に比べ時間の流れがずっと遅いので長命に見えますが、実質的にはこちらの方々と大差ありません。ただ、天人には主上より『天恵』という恵みの力が授けられ、その効力により歳を経ても肉体を老化させずにいられます」
「はあ。てんけい」
「奉仕に対する見返りと考えて頂ければ。私のような下位の者は羽衣で飛ぶ以外に特別な力を持たないので、それを補う加護を頂けるのです」
とは言っても無尽蔵ではなく、何でも願いの叶う万能の力というわけでもないので心身の不調に陥った際などに頼みにするものらしい。
ちなみに天界から離れて半年ほどで天恵の加護が無くなることは、八雲が自身の身をもって確認済みだそうだ。今の彼女は羽衣に浮力を与える力だけを備え、それ以外には地上の人間とほとんど変わらない。
蛮骨と霧骨は分かったような分からないような渋い顔をして首を捻った。
「しかし、今まで結構苦労しただろうな。あんたの故郷とは随分勝手が違うだろ」
「……そうですね」
蛮骨の言に八雲は遠くを見るような目をして、その口元に仄かな苦笑を滲ませた。
「天界では個人の意見を持つ必要もなく、定められた規律の中粛々と、与えられた役目だけをこなしていれば、飢えも渇きも苦しみも、何一つ覚えず生きていられたのですが」
ここではそうもいきませんものね、と言って目を細める。しかしその瞳には、慣れない苦労を味わう羽目になった悲壮感とは別の、どこか充足した色が宿っていた。
蛮骨がずず、と茶を啜る。
「そういう安穏とした世があるんなら、こんな明日の命もわからねえところと比べりゃまさしく天地の差ってやつだろう」
まったくだと鼻で笑った霧骨が、薬研に溜まった粉をすり鉢に移し、別の粉と混ぜ合わせ始める。
「羽衣、戻ってくりゃあ良いなぁ。八雲さん」
はいと返事をし、八雲は湯飲みに視線を落としながら続けた。
「羽衣は特殊な繊維を用いる上に織り方が複雑で、天界でも貴重なものなのです。身分ある方はご自身で所有しておられますが、一般的には必要に応じ共用のものを借り受けることになっておりまして」
「へえ」
勝手な想像で、天女なら誰もが羽衣を纏って自由に飛び回れるものと思っていたが、そういうわけでもないらしい。天界というのもわりと窮屈なものである。
「数が限られておりますし、過去には地上に放置された天の品が悪事に用いられた例もありますから、何としても返却しなければと探し続けていたのです」
「まぁ確かに、借りたもんは返すのが……」
何の気なしに口にした蛮骨だが、言い切る前に自分の言葉に若干の引っかかりを覚えた。
「ん? あれ」
土間にいる霧骨も同じものを感じたらしく、頭巾の後頭部をしきりに左右へ傾けている。
何となくすっきりしないが違和感の正体も判然としない。ひとつ頭を振って思考を放棄した蛮骨は、話しながら繕いものの支度なぞを始めている八雲に物言いたげな目を向けた。
「こうして旦那の帰りを待つ間に、ぼちぼち荷物をまとめといた方が良いんじゃねえのか。すぐに発てるように」
翔馬の衣を広げてほつれ具合を確認していた八雲が手を止め、蛮骨を見返した。
大きな瞳がしぱしぱと瞬きを繰り返し、
「え?」
「…………え?」
双方に寸の間、沈黙が降りた。
御殿を辞した煉骨と翔馬が内門近くで待っていると、襲が片手に大きな風呂敷包みを提げて追い付いた。しばらく滞在していくよう促す領主の誘いを、何やかや理由をつけて断ってきたのだ。
「それは?」
煉骨が風呂敷を指して問うと、
「今回の礼と土産だそうだ。俺はいらんからお前たちで分けてくれ」
そう言って無造作に翔馬へ手渡し、外門を目指して歩き始める。想定以上の重さだったらしく翔馬の身体ががくっと傾いだのを認め、煉骨の目がきらりと光った。あの領主が寄こした品なら、売ればそれなりの額になるものがあるかもしれない。
歩きながら、襲は煉骨に目をすがめた。
「なかなか様になっていたな、朱煉殿」
「う……、思い出したくねえ……」
あれやこれやの羞恥に苛まれた煉骨が苦虫を噛み潰した顔をしていると、背後で小さなため息が生じた。
「羽衣を…燃やしてしまうなんて……」
地を這うような呟きが耳に滑り込み、二人は肩越しに後ろを顧みる。どんよりと重い空気を背負いながら十歩ほど遅れて歩いている翔馬が、絶望に浸りきった顔をしていた。
「八雲に何と言ったら……」
泣きそうな、恨みがましいような目を向けられた襲は、周囲に自分たち以外の人気が無いことを確認すると足元に呼びかけた。
「もういいぞ」
何もない空間にぼうと影が浮き出、三匹の小妖怪が姿を現す。ずっとそこにいたらしい。
襲は膝を折り、なぜか舜と一角に両脇を支えられている小丸を抱き上げた。顔を下に向けさせ、何度か軽く背中を叩く。
「むぐぐ」
小丸はもごもごと口元を押さえていた両手を離し、口中のものをぺっと地面に吐き出した。
「あっ!?」
煉骨と翔馬が揃って目を剥く。
唾液にまみれ皺くちゃになっているそれは、先ほど灰も残さず焼失したはずの羽衣に違いない。ということは、突然消えたように見えたのは小丸がまやかしの炎ごと丸呑みしたためだったのか。
「ごくろーさん」
舜と一角が小丸を囲んでねぎらう。息苦しいのを我慢していたらしい小丸は、こてんと仰向けに転がって深呼吸した。
「はーっ、燃え上がった時は死んだと思ったけど」
「熱くなかったもんなーあれ」
襲が唾でべっとりと湿った羽衣を拾い上げ、翔馬の前で広げてみせた。口をぱくぱくさせていた翔馬の両目が数秒置いてじわっと潤み、胸が空になるほど息を吐き出す。
「良かったぁぁ…ありがとう、ございます…!」
「領主がそのように認識していなくとも、結果的には騙し取ったのと変わらん。穴埋めになるほどの価値は無かろうが、辞する際に魔除けの札くらいは渡しておいた」
朱煉殿の名義でな、といささか強調するように付け加え、再び歩き出す。
客の中でも襲の正体を知る者は限られているのだろう。だから安易に漏らすなよと、言外に釘を刺されている気がして煉骨は頬を掻いた。後で蛮骨にも伝えておかねば、また肝の冷える状況に発展しかねない。
天狗の後に続きながら煉骨はふと、先ほど領主の話の中で抱いた疑問を思い出した。
今となってはこの上なくどうでもいい事ではあるが、思い出しついでに襲の背へ問うてみる。
「そういえば好子と好太郎ってのは、あの領主の孫か何かか? 迷子になったのを見つけたとか言ってた」
「ああ、それは」
襲は歩みを止めぬまま、自分の右方向を示した。そちらには職人のこだわりをもって整えられた広さ三畳ほどの池がある。
その中心に誂えられたささやかな陸地に、かろうじて目視できる小さな小さな二つの影が寄り添っていた。
「亀だ」
到着した際に降り立った木立へ戻ると、煉骨は再び襲に頭頂を軽く叩かれた。意識する間も無く僧衣が消え失せ、頭の天辺から爪先までもとの装束に戻っていた。
城の井戸で竹筒に汲んでおいた水で羽衣にまとわりつく唾液を洗い流し、風を起こして乾かした襲は改めて天人の失せ物を確認する。
「完全に力が抜けている。これではただの布と変わりない」
「えっ!? それじゃ、八雲に返しても意味がないって事でしょうか」
言葉の内容と裏腹に、翔馬の声音はいささか弾んでいる。羽衣を女房に返さねばと思いつつ、やはり帰ってほしくない気持ちが強いのだろう。
しかし、彼の淡い期待はさっくりと両断された。
「いいや、少し力を注いでやれば浮力を取り戻すだろう」
その言の通り、襲が軽く手をかざすと羽衣はすぐに自力でふわりと浮き上がった。
「俺の通力は天界のものとは質が異なるが、翔馬殿の自宅くらいまでは飛べるはずだ」
自宅まで? と煉骨は怪訝に眉を顰める。翔馬宅まで浮力が続くとして、それがどうしたというのか。
と、襲がすたすたと煉骨の正面へやってきた。おもむろに広げた羽衣の両端を持って煉骨の首の後ろへ回し、二の腕に緩くくぐらせ巻きつけ始める。
「う…ん…?」
とても。とても嫌な予感がして、煉骨は緩慢に口端で笑った。
「……ええと襲さん? いったい何してんのかな」
「いや、夢浮橋での件を詫びねばと思っていたところでな。羽衣を手にする機会など二度と来ぬだろう、せっかくならば帰るまでの行程で少し体験させてやろうと」
善意しかないかのように真面目くさった面持ちで答え、煉骨の腕に羽衣を巻きつけ終えた襲が彼の脇腹を両側から軽く掴んだ。
「は? そんなんいらぁぁぁぁぁぁ――――!!」
言い終える前にそのまま垂直に投げ飛ばされ、語尾だけを地上に置き去って煉骨が星になった。彼の飛んでいった空を見上げ、襲は意外だとでも言いたげに二、三度瞬きをする。
「ああ……纏った者の体重自体も軽くなるのか。思った以上に飛んでいってしまった」
「ちょっ、冷静に分析してる場合じゃないですよ! ぜんぜん見えなくなってしまったじゃないですか、どこまで飛ばしたんです!?」
翔馬が泡を喰って詰め寄る。対する天狗は何をそんなに慌てているのかと暢気に腕を組んだ。
「見えている。あそこまでいくとかなり空気が薄いだろうが、すぐに落ちてくるから支障は無い」
その言葉通り、限界点へ到達した煉骨が来た道を落下しながら戻ってくる。凄まじい速度で下降し続け、下からの風圧をまともに受けて目蓋も口もこれ以上ないほど開ききっている。
見る間に地面との距離が近付いて瞬きの後には全身が木端微塵に砕け散る事を覚悟したが、ある一定の高度に差し掛かったところで羽衣がふわりと持ち上がり、煉骨の身体を空中に留めた。
放心状態で手足をぶらぶらさせながら羽衣に吊られている男の姿を見て絶句する翔馬に、襲は何事も無かったように右手を差し出した。
「ほら、問題無いだろう。では俺たちも行くとしよう」
翔馬がその手を取るまでにかなりの覚悟を要したことは、言うまでもない。
「ぜぜぜぜぜったいに! 手を! 離さないでくださいね!!」
「先よりしっかり支えているのだから心配は無用だと言っているだろう」
半泣きになって風呂敷をぎゅうと抱き締める翔馬をさらに両腕で横抱きにしている襲は、もう何度目かになるやりとりに軽く嘆息した。本来なら片手でも肩に担ぐでも十分支えられる軽さなのだが、後生だからそれだけは勘弁してくれと全力で土下座されては仕方がない。
翔馬の家を目指し羽ばたく襲の少し後方を、羽衣に吊られた煉骨が力なく漂っていた。手足は柳の枝のように垂れ、青を通り越して白くなった表情はどこかに魂を置いてきたかのようだ。
「うう……羽衣を取り戻せたのは良かったけど、でも」
翔馬が八の字にした眉を寄せてこぼす。
「それってつまり、八雲が天に帰ってしまうってことで……やっぱりあの場で燃えてしまってた方が良かったのかなあ」
「……」
先ほど非難の目を向けられた襲は、無言で翔馬を見下ろした。翔馬の独り言はなおも続く。
「ああ、今にも羽衣が役立たずの布切れになって、空なんか飛べなくなってしまえばいいのに」
「…………」
これはまた随分と己に正直な男だ、と思う鴉天狗だが口には出さずにおく。
一方、翔馬の物騒な呟きが耳に入った煉骨は射殺さんばかりの目で先を行く二名を睨んだ。こちとらその羽衣を唯一の命綱にしているのだ、冗談ではない。
殺気を悟ったらしい襲が振り返らずに声だけ投じてきた。
「仮に落ちたとしても、できるだけ地面に接触する前に拾ってやる」
「ふ……、そこは嘘でも『絶対に』と言ってほしかったぜ」
意地でも落ちてなるものかと、煉骨は羽衣を腕に幾重も巻き付け強く握りしめた。
いくつもの集落や森を眼下にひと時の飛行体験を経て、彼らは翔馬宅の上空に差し掛かった。