「あ」
庭で作業をしていた霧骨が空を指さしたのを受け、同じく戸外で蛮竜の手入れに勤しんでいた蛮骨もそちらを見上げた。
「おー、帰ってきたか。案外早かったな」
翔馬を抱えた襲がこちらへ飛来してくる。その後ろでは、何やら体に布を巻きつけた煉骨がじたばたとして空に取り残されていた。布の余った部分が尾を引くように揺らめいている。
「兄貴が天人に……?」
霧骨が呆然と呟く横で、目の上に手をかざした蛮骨がぼそっと返した。
「霧骨、あれは天人じゃねえよ。タコだ、たこ
話している間に天狗が二人の前へ着地する。
翔馬を下ろしてそのまま煉骨の回収に戻ろうとする襲を蛮骨が呼び止めた。
「あんなにはしゃいでる煉骨を見るのは初めてだ。もうちっとあのままにしといてやろうぜ」
襲は黙然と上空の煉骨を見上げた。ぐるぐると旋回しながら手足をばたつかせ、甲高い声でしきりに何か叫んでいる。
なるほど、あれははしゃいでいたのか。
「わかった」
眼下で何やら腹を抱え笑いこけている蛮骨と霧骨、その隣でこちらを見ているばかりで一向に戻ってこようとしない鴉天狗を認めた煉骨の胸中に、恥と憎悪と殺意のもつれ合った感情がどす黒く渦巻く。
「あいつら……!」
だがそれどころではなかった。
ここにきて羽衣は制御を失い、まさしく糸の切れた凧のように好き勝手飛び回り始めたのだ。上下左右に回転し、もはやどちらが天地かも定かでない。
「止まれ! 止まれぇぇ!!」
煉骨は激しく目を回しながらも、必死に懐から鉄線を巻いたものを取り出した。おぼつかない手つきで末端を腰帯に何とか結びつけ、束になっている方を地上へ放る。
「それを! 手繰ってくれ!!」
「しょうがねえなあ」
霧骨がのそりと歩み寄って地面に落ちた鉄線の束を取り上げる。
ずんぐりした手中でのんびりと鉄線が巻き取られ、その先で煉骨が風にあおられ四方八方に振れまわるのを眺めながら、蛮骨は堪えきれない様子で激しく肩を揺らしていた。
「それっ、本当、にっ…凧…っ…」
ひぃひぃ身を捩ってばしばしと霧骨の背を叩くため、そのたびに霧骨の鉄線を巻く手が止まる。霧骨もまたあはははと愉快そうに応じているので始末が悪い。
「あぁんの餓鬼ぃぃ!! いつか絶対寝首掻い――」
こめかみに青筋を立てまくし立てたその時、休みなく飛びまわっていた羽衣がにわかに静止した。それと同時に――宿っていた浮力がすん、と消えたのがわかった。
「へ? あ?」
一拍遅れて煉骨に体重が戻り、考える間も無く真っ逆さまに落下する。
「ああああぁぁぁ――――っ!!」
喉奥からあらん限りの絶叫を迸らせ瞬く間に地面との距離を縮めていく煉骨の身体を、知らぬ間に落下点で待機していた襲が危なげなく受け止めた。
「楽しめたようで何よりだ」
「……今の、どこをどう見てそう思った…?」
全ての感情が抜け落ちた声を絞り出し本気で困惑する煉骨に、襲は無表情で瞬いた。
そこへ翔馬と、笑い過ぎて腹を押さえ喘いでいる蛮骨たちが駆けつける。
「だ、大丈夫ですか!」
さながら生まれたての小鹿を彷彿とさせる挙動で地面に座り込んだ煉骨は、腕に巻き付いている羽衣を引きちぎらんばかりの勢いで剥ぎ取り翔馬に押し付けた。もう二度と触れたくない。視界に入れたくもない。
「うまく取り戻せたみてえだな」
翔馬が受け取るより先に横から蛮骨が羽衣を取り上げ、物珍しげに陽光に透かして眺めた。話に聞く虹色の輝きを目の当たりにし、霧骨とともに「これが三十貫の布か」と感嘆する。
「俺はもう不要だろう」
早くも立ち去ろうとする襲の背に霧骨と蛮骨が声を投げかけた。
「天女見てかねえのか? 別嬪だぞ」
「朔夜には負けるがな」
襲が答える代わりに彼の肩や袖口からにゅっと顔を覗かせた小妖怪たちが大口で叫んだ。
「俺たちはいそがしいんだ!」
「ごほうびの甘味を食べるんだぞ!」
「うらやましいだろ!」
待ちきれない様子でにんまりしながら、こちらへべえっと舌を出す。天狗と一緒にいれば人間たちに何をしようが怖いものなしだとでも思っているらしい。
「そうだ大将、朔夜さくやも連れてこう! いつも美味いもん食わせてくれるから、その礼をしなくちゃな!」
それが良い、早く早くと急かす小妖怪に頷いた襲が蛮骨たちに軽く片手を上げる。身を翻すと同時にその姿がかき消えた。
何がどういう約束で甘味を食べに行くことになったのだか知らないが、今の会話通りならば朔夜を誘いに向かったのだろう。
天狗を見送った二人は翔馬たちを振り返った。煉骨はようやく落ち着いてきたらしく、ふらつきながらも何とか立ち上がろうとしている。
蛮骨が翔馬の手に羽衣を返すと、受け取った彼は安堵と反比例するように眉と口端を引き下げた。
「翔馬さん」
遅れて駆けつけた八雲の呼びかけが聞こえ、翔馬の肩が大きく跳ねる。
「あ…、八雲……」
咄嗟に羽衣を背中に隠して妻に向き直る。八雲は夫に駆け寄ると、心配そうに無事を確かめた。
「お怪我などしていませんか? 食事は、ちゃんとしていましたか?」
「う、うん」
ほうと胸を撫でおろし、灰色の瞳が翔馬を見上げる。
「羽衣は……」
翔馬はまだ未練を拭いきれない様子だったが、ぐっと目を閉じると背にしていた腕を前に回した。そこにある羽衣を手に取り、八雲は目を潤ませ安堵した風情で深く息を吐く。
「よかった……これで」
翔馬がばっとその場に膝をつき頭を下げた。
「ご、ごめん…! 今まで嘘をついていて……」
八雲が驚いたように身を屈めて翔馬の肩に手を添える。
「もう怒っていませんよ? これを返して頂ければ、私はそれで」
翔馬はゆっくりと顔を上げて妻の面を見た。その目元が歪み、ぶわっとしずくが溢れ出す。
こんなに優しい妻に対し、自分はなんて酷い仕打ちをしてきたのだろう。
「ごめん、本当に、ごめん……」
顔を伏せ、嗚咽おえつに震えながら繰り返し詫びる。
「八雲がどんなに辛い思いをするか、わかってたのに……自分の気持ちばかり優先して、俺…俺はっ……」
ごめんと、何度も何度も頭を垂れ、その度に滴が地面に落ちていく。
「勝手なことばかり言ってるのは、わかってるんだけど……」
顔をぐしゃぐしゃに崩してこの上なく情けない姿を晒しながら、それでも翔馬は声を引きつらせ切願した。
「君と離れたくない…! あの泉で一目見た時からずっと……ずっとこのまま、一緒にいたくて……だから…だか、ら……」
どうか帰らないでくれと、悲痛に訴える。
「翔馬、さん……」
八雲はうずくまる夫を言葉もなく見下ろしていた。その目がおずおずと蛮骨と霧骨を見上げ、やがて困った笑みを刻む。
蛮骨と霧骨がとても気まずげに視線を交わした。
「あー……それなんだがな」
身も世もなくむせび泣いている翔馬に声を掛けようとしたその時。
八雲の手にある羽衣がまばゆい光を放った。

一瞬にして視界を白く焼き尽くした閃光に誰もが思わず目を瞑り、顔の前に腕をかざす。その刹那、いくつもの羽ばたきの音が耳朶を打った。
徐々に弱まる光の中、そろそろと目を開けた一同は目の前の光景に息を呑んだ。
今の今まで自分たちしかいなかった草原の只中、八雲に瓜二つの女人たちが立ち並んでいる。
数はおよそ十人。その表情は一様に穏やかな微笑をたたえ、冬の湖面を思わせる静謐せいひつな眼差しがこちらに向けられていた。周囲には白い鳥の羽がひらひらと舞い落ちている。
「姉様方……!」
八雲が口元を覆って叫んだ。
蛮骨は先ほど聞いた天界の話を思い出す。
どれが姉で妹なのか区別がつかないが、つまり彼女たちが同じ沙羅の樹とやらから生まれた姉妹なのだろう。これほど面差しがそっくりで名前も持たぬのでは、個人を識別するのはかなり難儀に思われた。
天女たちの口が開かれ、透き通った声が空の下に響く。
「迎えに来ましたよ」
「あなたが羽衣に触れ天の力を通わせたことで、やっと居場所を特定することができました」
「さぞ恐ろしい思いをしたでしょう」
天女たちは翔馬や蛮骨たちの横をすり抜けて八雲の周囲へ歩み寄り、その手を引こうとした。
「八雲……!」
ごしごしと涙を拭った翔馬がたまらず呼びかける。天女たちがぴたりと動きを止めた。
「……八雲、とは」
当惑したように繰り返す天女に、八雲は笑顔で答える。
「私の名前です。あの方に名付けて頂きました」
天女たちは「そうですか」と穏やかに微笑み、
「それは、もう必要ありませんね」
八雲の笑顔が固まった。
「さあ、羽衣を身に付けて」
促された八雲が大きく目を見開き、慌てた様子で両手に載せた羽衣を同胞たちへ差し出した。
「は、羽衣はお返しします。これは地上にあってはならないものと教えられてきましたから。長らくお借りしてしまい、申し訳ございませんでした」
でも、と彼女は続ける。
「私はここに残ります。ここで夫と――翔馬さんと、このまま一緒に生きていくと決めたのです」
「えっ」
驚愕の声を上げたのは翔馬と煉骨である。二人が不在の間、すでに八雲の意向を聞いていた蛮骨と霧骨は訳知り顔でうんうんと首肯している。
「それを説明しようとしたら」
「あいつらが現れて」
「帰るつもりがねえなら、羽衣いらなかっただろ!?」
あんな思いをしたのに、と煉骨がまなじりを吊り上げる。
「……それはそれというか」
「羽衣は借りもんだから返さねえとだめ、じゃんか」
蛮骨と霧骨は一応事情を説明するが、正直なところ二人も「いらなかった」と思っているので強くは言えない。
己らが八雲の立場だったならば、地上で生きると決めた時点で借り物の所在なんぞ綺麗さっぱり知らん顔をするところだ。それをしない律儀さが天人の天人たる部分なのか。
「あんなに、あんなに泣いて怒ってたのに!?」
「あれはほら、ああやって怒るのが初めてで」
「止め方がわからんかったらしい」
蛮骨と霧骨が煉骨をなだめすかす一方、翔馬は茫然と妻を見据えていた。
「や、八雲……本当、に」
途切れ途切れの問いに八雲は微笑んで頷いた。翔馬は声にならない音を出し、顔を覆ってその場に崩れ落ちる。
「よ、かっ……」
しかし羽衣を差し出された天女たちはというと、美しい面に困惑を色濃く浮かべていた。
「ここに残る……?」
「なぜ」
「夫とは?」
その声音には、八雲の決意がひとつも理解できないと言いたげな響きがありありと滲んでいる。彼女たちは諭すように八雲に詰め寄った。
「そんな考えを持ってはいけません」
「天界以上に満たされ幸福な地はありません」
「我々は主上にお仕えしていればそれで良いのです。伴侶など必要ないのですよ」
口々に言い募り、八雲から受け取った羽衣を繊細な手つきで広げる。
「穢れたこの地に長らく留まったせいで、悪しき思考に犯されているのですね」
「羽衣を早く纏いましょう」
「羽衣を纏えば、地上での記憶は何一つ残りません」
「え……」
そんな作用があるとは初耳だったらしく、八雲が目を見開いた。もともと白い肌からゆっくりと血の気が引いていく。
周囲を取り囲む天女たちが柔らかな所作で彼女の両手を取った。八雲は狼狽して振りほどこうとするが、びくともしない。
両手に羽衣を広げた天女が能面のような笑みを貼り付けて近付いてくる。八雲の口から小さな悲鳴が上がった。
「お、お願いです、それだけはお許しください…!」
「嫌がってるだろう! やめてくれ!!」
翔馬が天女たちを引きはがそうと掴みかかった。軽装の防具で武装した天女の一人がその進路を塞ぎ、手にした槍の石突で翔馬の腹を突く。まともに食らった翔馬ははね飛ばされて地面を転がった。
「翔馬さん!」
八雲が駆け寄ろうと身を乗り出すが、四方を囲む姉妹たちに行く手をはばまれる。
槍を携えた天女が、くぐもった呻きを漏らし蹲っている翔馬に歩み寄った。今度は穂先をまっすぐに突き付ける。
「我らの同胞から羽衣を奪ってこの地に縛り、夫婦などと世迷言よまいごとを吹き込んだだけでは飽き足らず、まだ邪魔立てするのですか」
行動と裏腹に天女の語調は淡々としており、表情にも怒りの相は見られない。それどころかその口元は常に笑みを形作ったままだ。
語気と行動と表情がちぐはぐで、まるでからくり仕掛けの人形を相手にしているかのようだ。
「八雲が、ここに残ると決めたなら……絶対に行かせない」
地に腕をついて睨み上げてくる翔馬に天女の両目が静かに細められる。
「殺生は控えたいですが、我ら天の民に弓引くのであれば粛清もむを得ません」
天女は槍を手前に引くと、翔馬の胸元目掛け勢いよく突き出した。
八雲の上げた悲鳴に耳をつんざく金属音が重なる。
目にも留まらぬ速さで翔馬の寸前に割り込んだ幅広の刀身が、槍の軌道を完全に断っていた。
天女の双眸がゆっくりと得物の持ち主に向く。
「何者です」
「なに、通りすがりのしがねえ傭兵だ」
蛮竜によって槍の突き込みを妨害した蛮骨が、軽い調子で誰何すいかに答えた。
「部外者の手出しは無用です」
「俺たち、こいつが情報屋に払わにゃあならん手数料を立て替えてんだよ。それ返してもらう前に死なれたら骨折り損になっちまう。そっちも、そんな不誠実は良くねえと思うだろ?」
蛮骨が槍を防ぐ間に、翔馬は腹を押さえながら転がるようにその場を脱して距離をとった。天女の眼差しが翔馬を追う。
「その者を罰します。これ以上、人間の不浄の手で同胞に触れることは許しません」
「はは、不浄の手か。まぁ違いねえ」
鼻で笑う蛮骨に何がおかしいのかと不審の色を漂わせ、天女が槍を構え直す。切っ先は蛮骨を向いている。
「退きなさい。退かないのなら……」
「んな怒るなよ、分かりましたって」
蛮骨は肩をすくめるとあっさり蛮竜を引き抜いて後退した。すると入れ替わるように小男が手揉みながら進み出る。
「いや、うちの連れが失礼しました。詫びの印に、綺麗なお嬢さん方にこちらを差し上げましょう」
場違いに暢気な語調で、白衣の小男はのそのそと天女たちに歩み寄った。手の中にあるものを一人一人へ配り歩く。
「……?」
天女たちは見知らぬ小男から渡されたもの――一輪の紫の花を、不可思議な面持ちで見つめた。
配り終えた霧骨は最上級に人の良い顔で両手を広げる。
「綺麗でしょ。香りもとても良くて、ささくれ立った精神を落ち着かせる効果があるんでさ。騙されたと思って嗅いでごらんなせぇ」
天女たちはやや戸惑った様子を見せていたが、やがて言われた通りに花の香りを確かめ始めた。
「ふ……」
予想を超えて馬鹿正直な反応に、七人隊の三名は噴き出しそうになるのを必死で堪える。
悪意と縁遠い天女は「疑心」という概念が希薄なのでは、という情報屋の読みは、どうやら当たっていたようだ。
花に顔を寄せて鼻から息を吸い込んだ天女たちが一瞬、気が遠くなったようにぐらりとふらついた。次々と頭を押さえ小さな呻き声を漏らし始める。
「ふははははぁーっ!!」
両手を腰に当てた霧骨がそれはそれは愉しげに哄笑した。間髪入れず、掌中に握り込んでおいた球を彼女たちの頭上へ勢いよく投擲する。
「八雲さん、頭下げときな!」
八雲ははっと息をのみ、すでに一度耳にしているその指示に反射的に従った。できるだけ体勢を低く、口元を袂で覆う。
次の瞬間、天女たちの真上で爆ぜた球から大量の粉が降り注いだ。
「ひっ」
「わあっ」
微笑を決して崩さなかった天女たちの表情が崩れ、口々に悲鳴が上がった。長い髪やたっぷりとした衣の袖があっという間に微細な粉塵で覆われていく。やがて舞い散る粉が収まると、数秒も経たぬうちに彼女たちは激しく咳き込み始めた。
蛮骨たちはというと、示し合わせるまでもなく霧骨の意図を察して距離を取っていたため被害は皆無だ。彼らに引きずられて事無きを得た翔馬も、腹を押さえてはいるが立ち上がれる程度には持ち直している。
崩れ落ちた天女たちの間から這い出した八雲が、すぐさま立ち上がり夫のもとへ駆け寄った。
「翔馬さん! 大丈夫ですかっ……?」
「このくらい平気だよ。八雲こそ、何もされていないか!?」
互いに無事を確かめ合い、二人は安堵の吐息を漏らす。
蛮骨は天女たちの様子を窺った。揃いも揃って愚かしいほどご丁寧に騙されてくれた彼女たちは一人残らず地に膝をついて激しく咳き込み、ひゅうひゅうと喉を鳴らしている。
苦しむ姉妹たちの姿に八雲が痛々しく顔を歪めた。
「ごめんなさい……」
「心配いらねえよ八雲さん。ほんの一時は苦しい思いをしてもらうが、命にかかわる毒じゃねえんだ」
霧骨が安心させるように言う横で、蛮骨は夫婦に顎をしゃくる。
「それよか、今のうちに逃げた方がいいぞ」
夫婦は躊躇ためらいを見せた。
「皆さんも……」
「ああ、俺らも適当に逃げるって」
ひらひらと追いやるように手を振ると、唇を引き結んだ翔馬はばっと頭を下げ、八雲の手を取って駆け出した。
彼らの姿が遠ざかっていくのを尻目に、苦しむ天女たちを見下ろした霧骨は得意げに口端を吊り上げる。
「へへ、息苦しくて仕方ねえだろ。そいつを吸い込むと気道が腫れて呼吸をさまたげるのさ」
天人にもくんなら折り紙付きだ、と嗤う。
「香は思考を鈍らせ、花弁と葉は粉末にすりゃこの通り。綺麗な花には棘があるって、よく覚えときな」
ひとり悦に入っている霧骨の舌はぺらぺらと良く回っていた。
天女たちは霧骨の言葉に耳を貸す余裕もなく、しきりに身を折り苦しんでいる。精緻な彫像のように美しい相貌が涙や鼻水で見る影もない。やはり「えげつねぇ」と思わずにおれぬ蛮骨と煉骨である。
「じき、頭に血が回らなくなってお陀仏って寸…ぽ…う」
訊かれてもいない解説を続けていた霧骨はそこに至ってふと不安を覚えたらしく、兄貴分二人を振り返った。
「……天女って殺しちまっても大丈夫なもんかな」
八雲が言っていた通り体の構造が人間と大差無いのなら、このままだと遠からず死ぬのだが、と頬をかく。八雲の手前「命に関わらない」と言いはしたが、そんなわけはなかった。
「それは………………うーん」
蛮骨はしばらく難しい顔をしていたが、やがて考えあぐねた視線を煉骨に送る。判断を引き継ぐことになった煉骨もまた渋い表情になった。
「ううむ……」
大丈夫かどうかでいうと、何となく、大丈夫ではない気がする。
神だの仏だのを信じたり畏れる気はないが、天から降りてきたというこの者らを手に掛けることで自分たちが祟りやら天罰だのに該当する現象を被る可能性が万一にもあるのなら、そんな迷惑千万な事態は避けるに越したことはない。こちらは元々、ただ通りすがっただけでこの件には全く無関係なのだから。
であれば。
ここは冷静に、合理的に、交渉によって解決するべきだろう。
もう遅いかもしれないが。
という考えを蛮骨に伝えると、全くその通りだと合意を示された。
「解毒する方法はあるのか」
煉骨の確認に霧骨はふっと口端を持ち上げた。
「よく訊いてくれた」
彼は勿体ぶった動作で懐から液体の入った小型の竹筒を取り出し、天女たちの眼前でちゃぷちゃぷと振ってみせる。
「偶然にも、こんなところに解毒薬が」
「おお、さすが霧骨」
「用意がいい」
蛮骨と煉骨からささやかな合いの手が入る。
「これを飲むとあら不思議、気管の腫れが引いて苦しみから解放されます」
「喉から手が出るほど欲しい」
「お高いんだろうな」
天女たちの目は霧骨の持つ解毒薬へ釘付けになり、それを求め無意識に手を伸ばしている。
「もちろん普段なら値段が付かねえほど高価な品で、す、が! 今ならなんと、八雲さんを見逃してとっと空の上に帰ると約束すりゃあ、こいつをただでくれてやります」
「わぁー、すげーお得」
「よ、太っ腹」
ぱちぱちとまばらな拍手が生じる。天女たちは苦悶の中で歯噛みした。
「な、なんと……卑劣……っ」
しかしどんどん塞がる気管にいよいよ命が危ういと察したのか、その目が焦燥に見開かれる。
「わ、わかっ……! わか…ま…から、そっ…、早くっ!」
「彼女は……ここ、にっ……残しま……す!」
塞がって音が途切れる喉からか細い声を絞り出し、霧骨の持つ竹筒へ必死に手を伸ばす。
「本当だな?」
霧骨がじとりと見下ろすと、彼女たちは一心に頷いた。
一番近くに倒れている女の手元へと竹筒を放り投げ、霧骨は兄貴分たちのもとへ駆け戻った。後方では天女が我先にと中身を回し飲んでいる。
「薬が効くまで時間がかかる。今のうちに俺らも逃げちまおう」
一目散に逃げ出そうとした直後、三人は揃って顔面を強打した。唐突すぎる衝撃に絶句しながらよろけ、したたかに打ち付けた鼻面を手で覆う。
「な、何だってんだ!?」
目の前は何の変哲もない草原が広がるばかりでぶつかるような物など何もない。
不審に思いながら手を伸ばすと、すぐにその手は何かに触れ進行を阻まれた。
「……壁?」
いつの間にか蛮骨、煉骨、霧骨をまとめて取り囲む形で、視えない壁が構築されていた。
ざ、と草を踏む音が耳に届いた。
振り返れば天女たちは早くも立ち上がれるほどに回復しており、おそらく今までの人生で浮かべたことがないであろう般若のごとき形相でこちらを睨んでいる。
その中の一人の手に、仏具に似た形の何かが握られていた。
「汚らわしき地上の人間……よくも」
蛮骨と煉骨が冷えた目で霧骨を見下ろす。
「おい」
「効くまで時間がかかるんじゃなかったのか」
あんな即効性の薬をくれてやれと、誰が言った。
「あれぇ?」
こんなはずでは、と嫌な汗をかきながら目を泳がせる霧骨の前で、天女が自身の胸元に手を当てておごそかに言った。
「我らは主より天恵を受けし身」
「このような機にそれを用いるなどはなはだ遺憾ですが」
「薬の効能を増幅させました」
「……丁寧なご説明どうも」
霧骨が苛立ったように舌打ちを返す。
そういえば八雲の話でも天恵とかいう力について触れていたような。目にする機会など無かろうと、聞いたそばから記憶の隅の隅へ追いやってしまっていた。
天女たちの目が囚われの三人を見据えた。
「やはりこれ以上、このような野蛮なる者たちのむ地に同胞を留め置くわけにはいきません」
その言葉に霧骨の顔色がゆっくりと変わった。
「……は?」
言葉の意味を理解するにつれ、眦が吊り上がっていく。
「おい、約束破るってのか!」
八雲からは手を引くという言質げんちと引き換えに、解毒薬を提供してやったのだ。虚偽と無縁の天人が、よもや約諾を反故ほごにしようと言うのか。
怒りのまま詰め寄ろうとするが、あえなく再び不可視の壁に激突して跳ね返る。尻もちをついた霧骨は拳を振り上げて怒号した。
「この俺から薬騙し取っときながら何が天女だ、糞女ども!」
「そちらも我らが同胞をたばかったではありませんか。因果応報というものです」
いかに口汚くののしられようとも柳に風で、天女たちの顔に浮いた夜叉は徐々に鳴りを潜め、再び穏やかな笑みへと立ち戻っていく。
「命までは奪いません。事が済むまで、そこで大人しくしていなさい」
羽衣を纏った天女たちがふわりと浮き上がった。装束の豊かな袖や裳を棚引かせ一人、また一人と逃亡した夫婦を追い始める。
微動だにしない壁の中、三人は成すすべなくそれを見送ることしかできなかった。

 

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