八雲の華奢な手を固く握り、翔馬は脇目も振らず疾走していた。
身を隠せる場所を求め森の中へと駆け込む。息が上がっても転びそうになっても、止まるわけにはいかない。
行く手を阻む枝葉をかき分けて八雲が通りやすいようにしながら、前へ前へと足を進める。少しでも遠くへ逃げなければ。
背後から八雲の苦しそうな息遣いが聞こえる。これほどの距離を走るのは初めてだろうが、彼女は止まってくれとは一度も言わず翔馬についてきてくれていた。
絶対に離すまいと手を握り直したその時、前方の視界が開けた。
がむしゃらに走っているうち、導かれるようにあの泉へとたどり着いていた。
二人はみぎわで足を緩め、ようやく一呼吸入れる。大きく肩を上下させる八雲の背をさすりながら、翔馬は森の奥に視線を投じた。
「もっと……もっと遠くへ逃げないと」
少し落ち着いたところで翔馬は再び駆け出そうとしたが、手を繋いでいる八雲が動かなかったため踏み出した反動で引き戻された。
「どうした、八――」
肩越しに振り返り、愕然と見開かれた双眸に行き当たって息を呑む。
「……もう、逃げられない」
小さく開いた口から零れた言葉に目を瞠るが、すぐに彼女へ向き直って両肩を掴んだ。
「諦めちゃだめだ! 絶対に俺が守る、連れて行かせたりしない」
だが、八雲は青い顔で力なく頭を振った。翔馬の袖をつかむ手が小刻みに震えている。
「姉様方の気配が、どんどん近づいているんです。もうどこへ逃げても、私の居場所は察知されてる……」
翔馬は息を詰めた。嫌な汗が背を伝う。
毒に倒れたはずの天女たちがもう動けるようになったのだ。
巻き込んでしまったあの三人は──うまく逃げ出せただろうか。
焦燥の滲んだ瞳で忙しなく周囲を見回す。隠れられる場所を、天女たちを出し抜く方法を必死で探そうとするが、焦りばかりが先立ってしまう。
かたかたと震える八雲を支え、せめて一歩でも遠くへ進ませることしかできない。
「……」
蒼白な面差しで肩に添えられた翔馬の手を握っていた八雲が瞑目し、心を落ち着けるように深く息を吸った。
次に開いた瞳は、目の前に広がる泉の水面よりも静かな色をしていた。
おもむろに立ち止まると帯の間から小さな袋を取り出す。
「これを」
翔馬の手を取り、袋から出した何かを手首に巻きつけてくる。翔馬はされるがまま彼女の手つきを見ていた。
今はそれどころではないと一蹴するには、その瞳はあまりに切実だった。
手首に施されたのは、手作りの腕飾りだった。
素朴な色合いの二色の紐が複雑に組まれ、模様を織り成して一巡している。結び目の位置には邪魔にならない程度の玉飾りが通され、木漏れ日を受けてきらめいた。
言葉を失う翔馬に、八雲は「ふふ」とはにかんでみせた。思わず今の状況を忘れてしまいそうになる、花のような微笑。
「村の娘さんに習って、こっそり作っていたんです。本当は、翔馬さんの生まれ月に渡すつもりだったんですけれど」
きっとそれはもう叶わない。ならばせめて、一緒にいられるうちに。
八雲が一歩、翔馬に歩み寄った。
やや目線の高い夫の頬に手を添え、背伸びをして軽く唇を当てる。ほんの瞬きの後には身を離し、顔を赤く染めて少女のように笑んだ。
「私はもうすぐ、ここでのことを忘れてしまいますけれど……私が生きてきた中で、翔馬さんとの時間がいちばん幸せでした」
木漏れ日に溶け込む淡い色の瞳が大きく揺れる。それを隠すように、八雲は翔馬の背へ腕を回し首元に額を寄せた。
「あの時、羽衣を盗んでもらえて良かった。あなたの妻にして下さり、ありがとうございました」
翔馬はのろのろと彼女の背を支え、戦慄わななきそうになる唇から懸命に言葉を紡いだ。
「ました……じゃ、ないだろ」
これからもそうだ。明日も明後日も、数年後もその先だって、八雲はずっと自分の妻だ。歳を取り身体が老いて、生涯を終えるまで、ずっと。
だって、彼女は天女たちが幸福な地だと口をそろえる天界への帰還より、こんな自分と生きる道を選んでくれた。どうしようもなく自分本位な理由で彼女を留め、騙し続けてしまった自分を許してくれた。
もう悲しませない。二度と嘘はつかない。何があっても守る。そう決めたばかりなのに。
何もできないのか。
諦めるな。諦めるな。
細い肩を抱き締め、必死に打開策を探す。
ざっと風が吹き込んだ。
顔を上げると同時に木々の狭間から木の葉が散り舞い、それに紛れて空を駈ける天女たちの姿が泉のほとりに躍り出た。
「っ……!!」
翔馬は彼女を抱く手に力を込め、威嚇するように頭上の天人たちを睨み上げる。
だが、八雲は夫の胸に両手を当てると一度視線を交わし、静かに身を離した。そして降り立つ天女たちに向き直り、深く腰を折って頭を下げる。
「もう逃げません。ですからどうか……この人には害を加えないでください」
同胞の訴えに天女たちは翔馬を一瞥いちべつし、やがて「良いでしょう」と首肯した。
翔馬が引き止めようと手を伸ばした刹那、天女の一人が仏具のようなものを掲げた。
途端に全身の力が抜け、視えない鎖で手足を地面に縛り付けられる。
「八雲! だめだ、逃げろ!」
八雲は悲壮に歪む夫の顔を見返して優しく笑んだ。
天女が羽衣を広げて彼女の背後に回る。
向こう側が透けるほどに薄い布地が、水面に返る光を浴びて虹色に波打っている。
あんなものを取り返すんじゃなかった。どんなに嫌われても、見放されても、もう無くなったのだと、諦めろと、そう言っていれば。
「やめ…ろ…っ」
持ち上がらない手を伸ばそうと必死にもがく。
その先にある灰色がかった瞳が大きく歪み、一筋の滴が伝い落ちた。

同時に、彼女の肩に羽衣がかけられる。

いつも好奇心に輝いていた大きな双眸から光が抜け、すっと涙が引いた。次いで口元には筆で描いたような笑みがゆっくりと刻まれる。
今まで自分に向けられていたものとは全く違う。
ここで初めて出逢った時の彼女よりさらに無機質な、仮面のような。
「や、くも……?」
からからに乾いた喉から出た声は掠れきっていた。
呼ばれた当人は、しかしそれを名とは認識せず、ただ木の葉のざわめく一音として聞き流す。
もう、その瞳に翔馬を映していない。
「八雲! 八雲!」
幾度も、喉が裂けんばかりに名を呼んでも翔馬の声は彼女を素通りし、心の表層を撫でることすらない。
翔馬の目が絶望に見開かれ、がたがたと指先を震わせた。
「行きましょう」
天女たちに促された八雲は後ろ髪を引かれることもなく首肯し、翔馬を一顧だにせず同胞たちの後に続いた。
彼女と過ごした時間が、共にあった日常が、走馬灯のように目の奥を駆け抜けていく。
「うわああぁぁぁぁ!」
翔馬の喉から張り裂けるほどの絶叫が迸った。
その瞬間呼応するように仏具が震え、不可視の力による拘束が音を立てて砕け散る。驚愕した天女たちが振り返る。
弾かれるように駆け出し八雲の小柄な背へ手を伸ばした翔馬の目の前に、槍を携えた天女が滑り込んだ。
「どけ! 八雲を返せ!! 返してくれ!!」
怒号して暴れる男を天女たちが次々に取り押さえる。両腕を掴み、双肩を固定し、首を押さえて地面に無理矢理膝をつかせる。
痙攣するように絶叫し続ける男の頭上で、薄い灰色の瞳を互いに見交わし頷きあう。
取り囲む天女たちの狭間から垣間見える八雲の姿が、先導する者たちと共にふわりと浮き上がった。
風をはらんだ羽衣が鮮やかに翻る。
差し込む陽光を導とするように上昇する彼女の姿が、頭の先から少しずつ、純白の鳥へと変じていく。
ああ、行くな。
どうか。行かないで、くれ。
いくつもの手に捕らわれ激しく嗚咽しながら最愛の名を呼び続ける翔馬の眼前で、虹の光沢を帯びた薄絹が音もなく広げられた。

季節外れの白鳥の群れが、鳴き声ひとつ立てず空へ飛び立っていく。
白い羽根が雪のように舞い落ちる中。
穏やかな陽光に照らされる泉の畔に座り込んだ男は、呆然とその光景を見つめていた。


蛮骨たち三名が囚われた不可視の壁は内から外に音が一切届かぬらしく、どれほど蒼空を呼んでも襲を呼んでも、なぎや小妖怪たちまで呼んでみても、誰一人現れることはなかった。
視えない壁に向かって殴る蹴るを散々繰り返すがびくとも揺らがない。ついにはどうにもお手上げだと悟り、その場に座り込んで変わり映えの無い景色を眺める他無くなってしまった。
壁からほんの数歩先に天女が置いていった仏具のような器具がある。おそらくあれをかなめに天恵だか何かの力を使って、この忌々しい壁を作っているのだ。あれさえ壊せば壁も消えるのだろうが、この状況では手も足も出せない。
「あいつら、どうなったかな」
ぽつりと呟いた霧骨に、蛮骨も煉骨も返事をしなかった。
天女たちが飛び去ってからおよそ半刻ほどが経った頃。
ぴしりという音が耳をかすめ、三人を閉じ込めていた透明な壁に白い亀裂が走った。見ると地面に置かれた仏具の輪郭が徐々にぼやけ、空気中へ溶けるようにかき消えていく。
立ち上がった蛮骨が亀裂の箇所目がけて蛮竜を振り下ろすと、壁は薄氷の砕ける音を伴いあっけなく霧散した。
霧骨が前方に手を伸ばしながら慎重に数歩踏み出し、今まで行けなかった位置まで進めることを確認して息を吐く。
「やっと出れた」
時間経過で効力が尽きたのか、それとも天女たちの方で何かしらの操作を行ったのかはわからないが、ともかくこれで自由の身だ。
「追いかけよう」
駆け出そうとする霧骨に、しかし煉骨は迷わず首を横に振った。
「これ以上首を突っ込むのは止めようぜ。この話は終いだ」
今は閉じ込められるだけで済んだが、下手をするともっと酷い状況になっていた。薄情だろうが何だろうが、無関係の問題のためにこちらが危険を被るのはもう御免だ。
「……だな」
蛮骨も嘆息混じりに同意し煉骨に続いて歩き出す。
しかし霧骨はその場を動かない。
「霧骨、行くぞ」
気付いた蛮骨が呼びかけると、何度か躊躇してからゆっくりと口を開いた。
「兄貴たち、先に行っててくれ。俺は一応……探してみる」
そう言い残し、翔馬たちが逃げて行った方角へ駆けていく。
蛮骨と煉骨はしばし黙然とその背を見送っていたが、やがてどちらからともなく大きな溜め息を吐き出した。

そちらへ行った確証は無かったが、三人は八雲と最初に出会った例の泉へと足を向けた。そこを確認していなければもうこの件は追わない、という条件で蛮骨と煉骨も霧骨に付き合っている。
泉までの道はうろ覚えだ。しかし森の小径こみちを逸れたところで、乱雑に踏み通った真新しい跡が見られた。よほど急いでいたことが窺い知れ、やはりあの夫婦はこちらへ来たのだと確信を得る。
痕跡を辿ると、あの泉へと行き着くことができた。
その畔にぽつんと座り込む人影がある。見知った背中であることにひとまず力を抜いた彼らだが、すぐにその場の違和感に眉を顰めた。
そこにあるのはただ一人、翔馬の姿だけだ。八雲も、二人を追跡していたの天女たちも、どこにもいない。
「翔馬」
背に声をかけると、ぼうっとした様子で上方を眺めていた翔馬の肩が揺れ、緩慢な動作でこちらに首を巡らせた。蛮骨たちを認めた彼の目が意外そうに見開かれる。
「あれ、皆さん」
立ち上がった翔馬は草を踏んで三人に近付きながら、気さくな笑みを浮かべた。
「戻ってきたんですか? 何か忘れものでも」
三人の背がすう、と冷えた。
「……八雲さんは」
霧骨の問いかけに翔馬は目を瞬く。
言葉の意味をしばらく考えていたようだが、やがて諦めた風情で頬をかき困った笑みを浮かべた。
「ええと。八雲さんて、どなたですか」
「……」
返す言葉が浮かばず三人は沈黙する。
冗談を言っているわけではなさそうだった。
この男は、嘘を吐けば全て顔や態度に出る。
泉の汀に浮いていた数枚の白い羽が、さざ波に巻き込まれてゆっくりと水底へ沈んでいった。


翔馬とともに彼の自宅へ引き返した三人は、そのままいとまを告げて自分たちの旅路に戻った。
話の噛み合わなくなってしまった彼とそれ以上何かを語らう気には、とてもなれなかった。
言葉を交わすことなくひたすら歩き続けていた彼らだが、やがて霧骨が疲れたようなため息を深々と落としてうつむいた。
「……なんだかなぁ」
木の葉のさやぎに埋もれそうな呟きを拾った蛮骨が目をすがめる。
「もう忘れろ。俺たちの手出しできる範疇はんちゅうじゃねえ」
襲を呼び戻し、どうにかする手立てがあるのか問うてはみたのだ。
翔馬の状態を確認した彼はずいぶん考え込んでいたが、やがて頭を振り、八雲が天界へ去ってしまった以上はもはや手の及ばない領域だと結論を出した。
彼女が天に還る姿を、三人は実際に見ていない。しかしあの場の状況からそれ以外に考えられなかった。
翔馬の記憶が術によって喪失したのであれば、解術できる可能性もあったらしい。しかしその痕跡はどこにもなく、彼もまた羽衣の作用によって記憶を失ったものと考えられた。
異界のことわりがいかに働いているのか不明な以上、さしもの鴉天狗といえど手の施しようが無い。
翔馬は八雲に関する全てを忘れていた。顔や名はおろか、己に妻がいたことさえも。
蛮骨たちのことはかろうじて覚えていたが、その中でも八雲や羽衣に関わる部分はことごとく抜けており、ただ旅の途中で昼餉をもてなしただけという認識に擦り替わっていた。
天狗に掴まって空を飛んだことも、領主相手に一芝居ぶったことも、まるでそんな事実など初めから存在していないかのように記憶から除かれているのだ。
「どうせ二度と会えねえなら、いっそ忘れちまった方が楽だ。そう思っとけ」
足元へ視線を落とし、蛮骨はにべなく言う。
もやもやとした気持ちのやり場に困っているのは自分たちだけだ。
当人が覚えていない以上、こちらが引きずり続けても埒が明かない。
煉骨が霧骨に半眼を向けた。
「そもそもお前、あいつらの夫婦喧嘩が勃発しかけてた時はだいぶ楽しんでただろうが」
「いや、それはそうなんだが。こういう別れ方されっと、こっちが後味悪いっつうか……」
背を丸めた霧骨はうまく心情を言い表せないように口の中でもごもごと言葉を咀嚼し、改めて気のふさいだ嘆息を漏らすのだった。
ひとつ頭を振り、気持ちを切り替えるように蛮骨は語調を変える。
「ところで煉骨よ、お前もあの羽衣でさんざん飛び回ってたわけだが、地上での汚れた記憶は消えたか?」
思い出し笑いを浮かべている首領に、煉骨は口をへの字に曲げた。
「いいや? いっそ消えてほしい記憶も鮮明に残ってるぜ」
「どういう事だろうなぁ」
単純に天人が羽衣を纏えば地上の記憶を、地上人が纏えば天の記憶を失うのだと認識していたが、考えてみれば煉骨は八雲のことも羽衣のこともしっかり覚えているのだ。
ただ羽衣を纏っただけでは、記憶を消す作用が働かないのだろうか。
煉骨も顎に指を当ててしばらく思考し、やがて自分なりの仮説を導いた。
「……憶測だが、あん時羽衣に注がれてたのが、天の力とやらじゃなく天狗の神通力だったせいかもしれねえ」
「力の質が異なる」と襲も言っていたし、お試しとしてほんの少し注がれていただけだ。あれに天界の力が多少でも残っていたなら煉骨の記憶とてあやうかったかもしれない。
羽衣が暴走する程度で、というのは煉骨としては大いに不服だが、それだけで済んだのは幸運だったのか。
行く手の彼方で、目に痛いほどの西日が黒く連なる山並に身を沈めていく。その手前には昨日と同じ宿場が、暮闇に町明かりを浮かび上がらせている。
結局、今日もここに宿を借りるしかない。
適当に肴を誂え宿の主人に酒を頼んで、さっさと寝てしまおう。
そうして明日からはまた、いつも通りの旅が始まる。

どうにもならない事が、この世には無数に散らばっている。
その一々に心を痛めるいとまはない。立ち止まればそこから進む方法をあっという間に見失い、常に足下へ広がっている暗闇へ引きずり込まれてしまう。
生きるとはそういうこと。
どうにもならない事をひとつ、またひとつ、諦めていくこと。
ここは、流されるまま平穏にいられる天の世界ではないのだから。
明日の我が身がどうなっているかも、わからないのだから。

その日以降、三人の口から羽衣やあの夫婦の話が出ることは、二度と無かった。

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