船を漕ぎ村に到着した頃には、陽が水平線へほとんど隠れていた。
蛮骨、煉骨、魴太ほうたの三人は急いで魴太の家へ戻る。
「おー、お帰り大兄貴たち。どうだった?」
能天気な仲間たちの出迎えに答える余裕もなく、三人はひとまず水を飲んで庭先に座り込んだ。
「ほんとにいたぜ、アマビエ」
「まじかよ……」
「あの絵のまんまだった」
「衝撃ですね」
「これから俺たちは死ぬほどアマビエの絵を描かにゃならん。お前らも手伝え」
蛮骨の言葉に弟分たちは胡乱うろんな顔をした。
「捕まえてくるって話は……」
煉骨がごほんと咳払いする。
「その考えはもう捨てた。それよりも、アマビエを描かねえと俺らにまで災いが降りかかるって話になっちまった」
残されていた五人が異口同音に「はあ?」と裏返った声を上げた。
「今なんて言った? 災い?」
「二人して何やらかしたんだ」
「い、いいから! 絵を描けば回避できんだから、つべこべ言わず描け!」
理不尽に煉骨から怒鳴られ、霧骨たちは不服そうに言った。
「いや、俺ら絵心とかねぇし……」
「そんなの俺だってねぇよ。とにかく枚数が必要になるんだ。ここにいる全画力を動員する」
話についていけない弟分たちが困惑顔を見合わせている。
そこで、きょろきょろと周囲を見回していた蛇骨が首をかしげた。
「大兄貴、かさねちゃんどこ?」
「……あいつは戦場に残った」
蛮骨はいたむような目をして彼方の小島を眺めた。今頃あそこでどうなっているのだろう。
「えっ、なんで」
「アマビエが残れって言ったから。一緒に酒飲みてえんだと」
「ちょっと待て、それはもしかしなくても危ねぇやつじゃねーか! あんなやばそうな姿の魚人で、しかも女だろ、襲ちゃん食われちまうよ! 色んな意味で!」
ああああ、と奇妙な悲鳴を上げて蛇骨は頭を抱え草地を転げまわった。
「食われると思うか?」
「絶対にありえねぇな」
蛮骨と煉骨は互いに頷きあい、蛇骨を捨て置いて弟分たちに向き直った。
合格に達した魴太の絵を掲げる。
「これが手本。これとそっくり同じに描け」
「ぎし、これから?」
銀骨がおずおずと空を見上げた。夜のとばりがその面積を広げつつある。
「早く村を出るには早く絵を用意するしかねぇんだ。徹夜で取り組むぞ」
弟分たちはわけも分からず困惑するほかないが、首領の命令とあっては異議を唱えるわけにもいかない。
蛮骨は魴太を振り返ると、七人が寝泊まりできそうな場所があるか尋ねた。
「近くに村の集会所があるんだ。あすこなら広いし、今なら誰も使ってねぇ」
あとで夕食用の食材を持っていくと約束し、魴太は母親の様子を見に家の中へ入っていった。七人隊は言われた建物へ向けぞろぞろと歩き出す。
皆の後に続こうとした煉骨が、未だに喚き狂っている蛇骨に気づいて半眼を向けた。
「蛇骨。絵を用意しねえと襲は帰って来れねえぞ」
瞬間、蛇骨は真顔で起き上がり、すたすたと煉骨の横をすり抜けて仲間たちの後を追いかけていった。
その背を呆れ顔で見ていた煉骨の脳裏にある考えがひらめく。
何かあったら襲をダシに使えば、蛇骨を御しやすそうだな、と。


アマビエは上機嫌だった。
蛮骨たちが小島を後にして後、アマビエの波瑤はようは襲にすり寄り、うっとりとその相貌を覗き込んでいる。
「やはりわらわの目に狂いはなかった。お主、それほど見目が良いならば鴉などにならず初めからその姿で来ぬか」
「馴染みではない人間がいたのでな。あの姿の方が力の抑制がきく」
波瑤が髪の毛を器用に巻きつけて酌したさかずきを受け取って、襲は返すように波瑤の杯を満たした。
「本音を申せば絵がやや下手な人間と、絶望的に下手な人間もなかなかの男前じゃったから残しておきたかったのだがな。誰かさんにあのように牽制けんせいされては手も出せまいて」
「牽制? 誰が」
本気で首をかしげる鴉天狗に、やれやれ、とアマビエは肩をすくめる。
「存外に鈍い御仁ごじんじゃのう。ま、主がおれば両手に花を諦めても釣りが来るというものよ」
夢見る乙女のように星を飛ばしてくるアマビエである。
ひとまず、襲は波瑤の要望を聞き入れてやるつもりでいた。
七人隊が罰をこうむることを考えれば、絵ができるまで己が酒に付き合う程度で済むのならば安いものだ。
それに、どうも彼女は人間が帰還した後で小島の周囲に強力な結界を構築したらしく、出るのに少々骨が折れそうなのだ。
襲の妖力ならば破壊することもさほど難しくは無いのだが、その反動で島自体を崩落させてしまうおそれがあった。地形が変わると広範囲に影響が出るので、それはそれで面倒なことになる。
絵が用意できたら村へ戻れるということだが、いつまでかかるものやら。
「ほれ、そこの小粒ども。さかなを持って来るのじゃ」
「ひえっ」
波瑤が岩室の入り口付近に佇む大岩へ向けて声を放った。すると岩の陰から三匹の小妖怪が転がり出てくる。
襲は数度瞬いた。ついてきているのは知っていたが、蛮骨たちとともに船で帰ったものと思っていた。なぜまだいるのだろう。
「早う早う。奥に酒もたんまり貯蔵しておるから、どんどん持ってまいれ」
「は、はいっ」
逆らってはいけない雰囲気を感じ取った様子で、三匹は風のように洞窟の奥へ駆けていった。
「さあさ襲どの、飲み明かそうぞ」
「……まだ昼間なのだが」
ささやかな突込みを華麗に聞き流して酒をあおる波瑤にならい、仕方なく襲も杯を口に運んだ。
なるほど、かなり強い酒である。人間が口にしたならば、いかな酒豪といえども卒倒するだろうし、妖怪であってもなかなかに飲み手を選ぶ代物だ。相手がいないというのはそういうことか。
それでもあやつらなら飲んでみたいと言いそうだな、などと考えていると、波瑤が空になった杯に次の酒を注いできた。
「しかし見事な紅眼あかめよな。紅眼の鴉天狗といえば重用されるじゃろうに、よう天狗の里が手放したものじゃ」
「えっ、鴉天狗って、みんな大将みたいな紅い眼をしてるんじゃないのか」
大皿に様々な肴を載せて担いできた小妖怪たちが驚きながら訊いた。波瑤がふっと小馬鹿にしたような笑いをこぼす。
「何を言うか。通常、鴉天狗の目は人間と同じ真っ黒け。紅眼の者は寿命の長い鴉天狗の中にあっても数百年に一人生まれるか、という稀少な存在なのじゃよ」
紅眼は桁違いに強い力を宿すことが知られており、それゆえに力を欲する他の妖怪からも狙われやすい。だから常に数人の警護を付き従えて行動するものなのだ。
妖怪だけではなく、天狗同士であっても紅眼は引く手に事欠かない。紅眼が属するというだけでその里の戦力は跳ね上がり、発言力を増すので、どこの里でも喉から手が出るほど欲する存在なのである。
と、訳知り顔で細かに説明するアマビエの言に、小妖怪たちは目をきらきらさせて襲を見た。
「大将、鴉天狗の中でもすごい人なんだ」
「その、紅眼の鴉天狗が独りはぐれて行動するなど、前代未聞じゃろうて」
小妖怪たちの視線から逃れるように、襲は酒をあおった。
「ずいぶん詳しいな。だが眼が黒いか紅いかの違いだけだ。言うほど大したものではない」
「ふむふむ。ま、そういう事にしといてやろうかの」
面白げに目を細めて、波瑤も杯を空にした。
話題を変えようと、襲は逡巡する。そこで、先ほどから気になっていた事を訊くことにした。
「いつの話だったかは忘れたが、ずいぶん昔にお前に似た妖怪に出会ったことがある。そいつは男で、名は確か」
海彦あまびこ、だったかと言った途端、波瑤が目を剥いて詰め寄ってきた。
「海彦!? 本当に、海彦かえ!?」
興奮した様子で長い髪を襲の手首に巻きつけ、絶対に逃すまいといわんばかりに締め付けてくる。人間の腕ならばあっという間に砕けているところだ。
くちばしが刺さりそうな距離に迫る波瑤を押し止め、襲は目を据わらせた。
「……とりあえず離れろ」
正直、妖怪同士であっても近くで見ると精神が不安定になりそうな面相なのである。
アマビエを引きはがし、落ち着かせたところで襲は記憶を手繰る。
「あれは筑後ちくご……いや、肥後ひごだったか……?」
数十年前の話な上に、なぜか意図的に記憶に蓋をしているようで、記憶が大変曖昧だった。
これといった当てもなくふらふらと各地を放浪していた時、波瑤のように海中からぬっと現れて、暇なら話し相手になれと請われたのだ。
とくに断る理由も無かったので話に付き合った気がするが、そこから先の記憶にかすみがかかっている。
「海彦の……うしお、と名乗っていた、気がする」
キエエ、と波瑤が甲高い悲鳴を漏らしたので小妖怪たちが耳を塞いだ。
「それはわらわの夫じゃ!」
「え?」
「夫?」
小妖怪たちが疑問の眼差しを向ける前で、波瑤はみるみる双眸に涙の粒を溜め鱗に覆われた体を打ち震わせた。
「汐どのっ……帰って来ぬと思えば、そんな遠くに」
「いや、しかし何十年も前の話でもしかすると記憶違いかもしれ」
「いいや! わらわはぴんときた、それは間違いなく汐どのじゃ」
襲の言を遮った波瑤は髪を振り乱してぼろぼろと泣き出す。
話題を変えたつもりが地雷原に滑り込んでしまったようで、襲はかなりの後悔を覚えながら酒瓶を差し出した。
「……まあ飲め」
こうなれば早いところ酔わせて潰してしまおうと、無表情の下で固く決意する。
襲の酌した酒を立て続けに三杯空にして、波瑤はぷはっと息を吐いた。
「聞いておくれや鴉天狗! わらわの夫ときたら酷いのじゃ。あの夜もこうして共に飲んでおっただけじゃのに……!」
そこから、果てしなく長い恨みつらみと愛憎の問わず語りが始まった。

 

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