絵図の製作は夜通し進められた。
囲炉裏にくべた炎明かりを頼りに、何十枚と同じ絵を描き続ける。最初こそ無駄口が多かった一同だが、気力の摩耗とともに誰もが口数少なになっていた。
「俺、自分がこんなに絵心が無いとは思わなかった」
凶骨が絶望をはらんだ声で唸った。その膝元には力加減を誤って折ってしまった数本の筆が転がっている。
「筆自体、ろくに持ったことねぇんじゃしょうがねえ」
霧骨が反応するが、そういう彼自身、自分の絵がある種芸術の域に達していることを悟っていた。
食材を届けに来てから作業に加わった魴太ほうたもまた、部屋の隅で黙々と描き続けている。母親の命がかかっているため、その一心不乱な様は鬼気迫るものがあった。
魴太に次いで上手く描けていた睡骨が、次の紙を補充しようとして情けない声を上げた。
「困りました、墨も紙も底をつきそうです」
一枚の紙を守り札程度の大きさに分割しながらできるだけ量を稼ごうとしてきたが、とうとう限界が来たらしい。
「村中まわって、かき集めるしかねえな」
しかし、今は深夜の丑三つ時だ。明かりもなく土地勘のない村の中を歩き回り、住人を叩き起こして事情を説明し、紙と墨を恵んでもらうのはかなり難儀しそうだった。
「ここは一つ、日が昇るまで休憩にするか」
煉骨が疲れ切った様子で筆を置いた。小島に渡ってからというもの、ひたすらにアマビエ図を描き続けて頭がおかしくなりそうだった。
こんな事になるなら欲目を出さず、魴太の母親の診察が終わり次第とっとと出発していれば良かったと後悔しても遅い。
作業を中断して早々に横になった煉骨にならい、他の者たちも筆を放り出して休息の体勢に入った。
魴太と蛇骨だけは黙々と作業を続けている。
「蛇骨、お前も休めよ」
蛮骨が促すも、蛇骨は頑なに首を振った。
「休んだらその分、かさねちゃんが戻ってくるまで時間がかかるんだろ。それは嫌だ」
「そうかい」
愛の力ってすごいな、などと思考力の低下した感想を抱きながら、蛮骨は吸い込まれるように眠りに落ちた。


洞窟の中に空の酒瓶が山と積まれていくのを、襲は無感動に眺めていた。
岩室からは外の様子が分からないのでどれほどの時間が経過したのか不明だが、目論見もくろみに反しアマビエの波瑤はようは、飲ませど飲ませど潰れない。
酔って気分が高揚してはいるのだが、その分口数が増え、身体への接触が増え、なぜか憂さ晴らしに軽い暴力も振られ始めているので手に負えない。
「のう襲どの! こんなに健気なわらわを置いて出て行った汐どのの神経がわからんじゃろう!」
「……そうだな」
そういうところだと思うぞ。と返しかけ、精一杯の努力をして喉元で止める。
波瑤の相手をしているうち、襲は海彦あまびこうしおのことも、徐々に思い出していた。なぜその時の記憶を意図的に忘れていたのかも。
汐の言動が、そっくり今の波瑤と同じだったのだ。
同じように酒に付き合わされ、愚痴を聞かされ、同意を求められ。
「わらわは汐どのの幸せを思って尽くしておるだけなのにぃ!」
そして伴侶への深すぎる愛が空回りしているのも同じだった。
要するに、当時の襲からするとあまりに不毛な時間だったため、「無かったこと」として捉えてきたのである。それでも海彦の存在だけは覚えていたのだから譲歩した方だろう。
「聞いておるのか!」
「聞いている。旦那にもらった髪飾りを失くしたので人里近くまで探しに行ったら不用心だと叱責された話だろう」
「それは二つ前の話じゃよ!」
波瑤はぷくっと頬を膨らますと持ち上げた髪の一束で襲をはたこうとした。襲が無造作に首を傾けてそれを避けると、背後の岩がどごっと音を立て、ぱらぱらと石のくずが飛び散る。
襲は辟易へきえきした様子で息を小さく吐くと、何とはなしに視線を滑らせた。その視界に、伸びている小妖怪たちが入り込む。
寝ているのかと思ったが、どうも目を回しているようだ。
意識してみると、洞窟内はむせるような酒の臭気に満ちていた。これに酔ってしまったらしい。
空気の抜け道が入り組んだ出入り口しかない上に傾斜の関係で空気がこごりやすい地形なので、さもありなんと言うべきか。
「少し、外の空気を吸ってくる」
波瑤の返事を待たずに立ち上がり、三匹を拾い上げる。
存外繊細なその手つきを見て、波瑤は面白げに目を細めた。
「良かろう。わらわも一度、入浴してすっきりしてくるとするかの」
言うが早いか、ばしゃんと水柱を立ててアマビエは石室の奥の泉に飛び込んで姿を消した。
その拍子に頭から潮水をかぶる羽目になった襲はわずかに眉間にしわを寄せつつ、風を起こして乾かしながら出口を目指す。
外に出ると、空がすでに白み始めていた。
「……本当に飲み明かしてしまった」
袖口を鼻に当ててみると、かなり酒臭くなっている。自分も水浴びをしたいところだが、潮水に浸かるのも遠慮したかった。
小妖怪たちを平らな岩の上に横たえ、襲は海鳥が舞い始めた空を見て遠い目をする。
もういっそのこと結界を破壊して逃げてしまおうか。
「うう。たいしょぉー」
おえっ、と海に向かってえずく一角の背を軽くさすり、襲は呆れたように言う。
「なぜ蛮骨たちと一緒に戻らなかった」
「だって大将ひとりにして、あの女に変なことされたら大変だし……」
予想していなかった返答に襲は目をしばたたく。
「俺たち一滴も飲んでないのにこの様じゃ、ぜんぜん役に立たないと思うけど」
よろよろと小丸が身を起こし、岩にもたれた。
「ていうか大将、波瑤と同じくらい飲み続けてるのに、なんで涼しい顔してるんだ」
「元々の体質に加え、そのように鍛えたから……だな」
「何のためにそんなこと鍛えるんだろう?」
しゅんいぶかしげに首をひねり、三匹は勝手にああでもないこうでもないと推測を始めた。
襲は七人隊が絵を描いているであろう陸地を見晴るかす。
「それよりも、むこうに帰りたいならば帰してやるが」
「どうやって…?」
「風で飛ばす、鳥にくわえさせる、ここから投擲とうてきする。好きな手段を選べ」
一番早く帰れるのは三つ目だ、と指を一本ずつ立てながら至極真面目に提案する襲に三匹は苦渋の顔をしたが、断腸の思いでここに残ることを選んだ。
その時、洞窟内から声が響く。
「鴉天狗ぅー、続きをしようぞ。まさか逃げたのではあるまいなー」
「うわ、まだそんなに経ってないのにもう戻ってきた」
一角が震え上がる。
「お前たちは体調が戻るまで休んでいろ」
襲はごきごきと首や肩を鳴らしながら洞窟内へ引き返した。
無表情ながら、うんざりしているのが何となく伝わってくる。
「酒に強いのも考えもんだな」
「うん、こういう場合はさっさと酔っちまった方が楽な気がしてきた」
小妖怪たちはあわれみつつ頷きあった。


夜が明けると、七人隊は手分けして紙と墨の調達に奔走した。
魴太は睡骨を伴って一度家に戻り、母親の世話をしてから合流することになっている。
霧骨と凶骨はともに村の東側を回り一軒ずつ、しらみつぶしに戸口を叩いたが、案の定すんなり開けてくれる家はなかった。感染症にぴりぴりしている状況に加え、人相の悪い余所よそ者が訪ねて来ているのだから、警戒するのも無理はない。
仕方がないので戸口が開けられないままに、彼らは事情を説明する。
「アマビエっつー神様が、自分を描けば疫病を止めてやるってお告げを寄こしたんだよ、かかりたくなけりゃ協力しやがれ」
妖怪、と言いたいところだが住人に信じさせるため、あえて神様と称して強調した。
かなり簡潔かつ横暴な説明ではあったが、わらにも縋る思いなのか、明り取りの窓からにゅっと手が出てきて、なけなしの墨と紙が渡された。
「その話、魴太も言っていたけれど……」
住人は手を引っ込めると疑り深い顔を窓から覗かせた。
「ほら、あんたにも一枚やるから壁に貼っとけ」
有無を言わさず出来たての絵を押し付けると、住人は戸惑いながらも受け取る。
「あ、ああ」
絵をまじまじと見て、言葉を失っている。
「信じるか信じねぇかは好きにしろよ」
「いや……だますならもっと信じられる絵を寄こす気がしてきた」
そのようなやり取りを幾つも繰り返し、両手がいっぱいになる程度の紙と墨は集めることができた。
「足りねぇ分はもう、葉っぱや布きれにでも書くしかねぇ」
墨も植物の汁などを代用するしかないだろう。
「ちょっくら採集してくる。お前、これも持って集会所に戻れ」
凶骨の大きな手に自分の持っていた紙束と墨壺を託し、霧骨は草地に踏み込んでいった。
自分より遥かに低いその背が高く茂った草地の海に消えていくのを見送って、凶骨は集会所に戻った。
集会所には蛇骨一人が残って、黙々と絵を描き続けていた。
彼がかつて、これほど何かに真剣に取り組んだことがあっただろうか。
煉骨に聞いた話だと、あのきれいな面差しをした鴉天狗の話を持ち出したら火が付いたとの事だった。人間、何が起爆装置になるかわからないものだ。
(いっそ、蛇骨の言うとおり襲を七人隊に入れちまえば、蛇骨はいつもやる気を出すんじゃ……)
などと考えて、しかし凶骨は頭を振った。
だめだ。どうしても、彼を入れられない事情がある。
妖怪だからだとか、そういう安直な理由ではない、譲れない部分があるのだ。

ひとり増えたら、「七人隊」ではなく「八人隊」になってしまうではないか。

 

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