磯姫いそひめ?」
「そう。この妖怪は『磯姫』というらしい。
ほかに、『海女房』、『濡れ女』とも呼ばれるんだと」
「で、他には?」
「…こいつは人の血を吸うって書いてあるぜ」
ここは蛮骨の自室だ。
あの後二人はこっそりとあの巻物を持ち出し、今こうして解読しているのである。
と言っても、ほとんど煉骨が「させられている」状態だ。
「蛇骨を襲ったのはこいつだな」
蛮骨は部屋に広げられた巻物を眺め渡した。結構豊富に妖怪の図が載せられているが、他にそれらしいヤツがいない。
可能性があるとしたら、この「磯姫」という妖怪だ。
「ったく、どこが姫なんだか」
「……でもよ、大兄貴。
この妖怪はもういないみたいだぜ」
「は?」
蛮骨が怪訝な視線を送ると、煉骨は「磯姫」の解説を指差した。
「以前この地を訪れた徳の高い法師に祓われて以来、現れてないってよ。
別の妖怪の仕業じゃねぇか?」
この巻物自体、いつ書かれたものか定かではない。それから今までの間に、新たな妖怪が棲みついていても不思議ではない。
「一応、参考にしとく。こいつの弱点は書いてあるか?」
「…こいつは、吸った血の人間の姿を借りて行動できる。弱点といえば……
本性を現したときに、心臓を一突きすりゃいいと、書いてあるが」
果たして本当なのか。
「大兄貴、どうするつもりだ?
まさか俺たちで倒そうとか思ってんじゃ……」
煉骨としては、余計なことに首を突っ込むのは遠慮したいところである。
他の仲間だって、そんなことを言い出したら異論を唱えるに決まっている。
「別に、お前らに無理強いはしねぇよ。
俺だって、また何かで出くわしたりしない限り、こっちから手を出す気はないからな」
煉骨は訝しげな表情になる。
ならば何故こんな風に調べたりしているのか。
問うと、蛮骨はあっさり答えた。
「暇つぶしに決まってるだろ」
隣で煉骨がひそかに肩を落としているのに、首領は気付いていない。
(暇つぶし……)
ああ確かに、この巻物を見つけたのも偶然だ。蛮骨が始めからこれを求めて書庫にいたわけではない。
そして彼が書庫にいたことすら、単なる時間つぶしだったはず。
それを思い出した副将は、なんだか今まで真剣に解読してしまった自分を顧みて悲しくなってしまった。
その夜。
宴が終わり、七人隊も各々が自分の寝床について、だいぶ経ったころ。
ギシ、ギシ…
規則的な音を聞きとめ、蛮骨は目を覚ました。
ギシ、ギシ、ギシ……
音は、こちらに近づいている。
廊下から聞こえてくる。誰かの足音だ。
だが、こんな夜更けに誰だろうか。
蛮骨は布団の中で聞き耳を立てながら、廊下に出る障子戸を見やった。
ここは城内。危険はないとわかっていても、戦場に身を置く性(さが)のためか、怪しげな音が過ぎるまでは寝付くことができない。
臆病、とは違うのだろうが。
自嘲しながら息をついたとき、音が部屋の前を過ぎていった。
だが、足音はあるのに、灯りはない。
場所からいって月明かりも射さない暗い廊下で、灯りのひとつも持たずに歩くのは難儀なはずだ。
城の者たちだって、必ず何らかの灯りを持って歩いていた。
不審に思い、蛮骨は布団から身を起こして障子戸をするすると開けた。
足音はすでに遠のいている。
蛮骨の部屋は一番奥に位置する。これ以上先に行けば、表へ続く道だ。
廊下へ一歩踏み出したとき、隣の部屋の戸が静かに開いた。
そこから蛮骨と同じように顔を覗かせたのは、煉骨だ。
「煉骨、お前も起きたか」
「大兄貴もか。今の足音、なんか変だったよな。
灯りもねえのに、妙にしっかりしてた……」
二人は顔を見合わせ、極力音を立てぬように、音の向かった方へ進んだ。
自分たちも灯りを持つわけにいかず、先を歩く蛮骨は何度か壁にぶつかって小さく呻いた。
煉骨はそれを頼りに、そこを避けて歩く。蛮骨は恨めしそうに彼を睨んだ。
そんなこんなで、二人は足音に追いつくより先に、外へ出てしまった。
奇麗に整えられた庭だ。青白い月光でぼんやりと照らし出されている。
敷き詰められた白い庭石のおかげか、より明るく見えた。
二人は息をのんだ。
彼らより少し先、庭の中央部辺りに、人影がある。それは、よく見知った人物だ。
「……睡骨?」
暗闇に浮かぶガタイのいい男。彼はまさしく睡骨だった。
彼はどこかうつろな様子で、少しも動かない。
何をするつもりか。
蛮骨と煉骨は息をひそめて成り行きを見守る。
すると、それまで真っ直ぐに立っていた睡骨の身が傾いだ。倒れるのではなく、腰から折れて身をかがめている。
くぐもった呻き声まで聞こえてきた。
何かに苦しんでいるのだ。
「睡骨!?」
慌てて二人は飛び出し、駆け寄った。
近寄ると、何かが睡骨の体に巻きついている。それが彼を締め付けているらしい。
「ぐっ…あああっ…」
睡骨の口から喘ぎが漏れる。容赦なく締め付けるものは、一本の何かというより、何かが束になったもののようだ。
これを切らねばならない。
だが蛮骨は、まさかこんなことになるとは思わなかったため、蛮竜も何も持ってきていない。
焦りをにじませて歯噛みしていると、煉骨が蛮骨に短刀を投げてよこした。
「睡骨のモンだ、それでこいつを切ってくれ!」
蛮骨はさっとそれを抜き、闇から伸びて仲間に絡みついている「何か」を叩き切った。
バサリ、と断ち切る音がする。切られたそれは、蛮骨の手をかすめた。
(……?)
触れた感触に、覚えがあるような気がした。
確かめる間もなく、それは闇の中へするすると逃れてしまった。
睡骨に巻きついたままのそれは、しばらくの間は意思をもったように蠢いていたが、やがてパサリと地に落ちた。
支えを失い、睡骨は今度こそ倒れこむ。煉骨が慌ててそれを支えた。
「大兄貴、気を失っているようだ」
睡骨を肩で支え、煉骨は蛮骨に言った。
蛮骨は地に落ちたものを拾い上げる。それはもう動くこともなく、指のあいだから垂れ下がる。
明るい場所で確かめるまでもない。この感触は――。
「髪だ、煉骨」
確信に満ちた声に、煉骨も驚く。
「髪、ってことは……蛇骨を襲った?」
「そうだろうな。触った感じが全く同じだ」
これは、おなじ妖怪のものだ。
蛮骨は髪を手に持ったまま煉骨と共に睡骨を背負い、部屋へと戻った。
睡骨を布団に寝かせ、無事を確認すると二人はそれぞれの部屋へと戻ったが、眠ることなどできなかった。
以前に入手した髪と同じ包みに今し方の髪を入れ、蛮骨は思案に暮れる。
どうやらもしかすると本当に「磯姫」なのではないか。
人間に成りすますというこの妖怪なら、海から離れたここにいたとしてもおかしくはない。
蛇骨に続いて睡骨まで襲われたとなると、黙って見過ごすことはできない。
蛮骨は我知らず重い息をついたのだった。

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