夕刻、二人は買出しのために再び外を歩いていた。
蛇骨も一緒に来ているのだが、こちらはあちこちの小間物屋を覗き回って落ち着かない。
「朔夜ぁ、今日のメシは何だー?」
戻ってくればきたで何度目になるかわからないこの問い。
「何がいいかしら」
口元に指を当てて思案する朔夜に、蛇骨は子供のように身を乗り出した。
(さば)! 俺、鯖の味噌煮がいいなぁ」
「あっ、良いわね。そうしましょうか」
二人が蛮骨を振り返る。
「いい?」
駄目だと言えるわけもない。それに、蛮骨も聞いたら食べたくなってきたので、素直に頷く。
「よっしゃー! 久しぶりだなぁ」
魚屋に向かって歩いていく途中、ふいに蛮骨が足を止めた。
「どうしたんだ大兄貴。鯖は嫌になったか?」
蛮骨はそこらの店先に設けられた長椅子を小さく指差す。
そちらを見て朔夜も目を瞠った。
誠太郎が座っていた。周囲には誰もおらず、彼は一人でじっと足元を見つめていた。
「誠太郎」
彼らが近づいて声をかけると、誠太郎は弾かれたように顔を上げた。
「あ……蛮骨さん、朔夜さん」
「誰だこいつ? あ、俺は蛇骨な」
蛇骨の問いも名乗りも誠太郎には聞こえなかったようだった。
「どうしたこんな所で。例の家には行ってみたのか」
「は、はい」
それきり押し黙って俯く誠太郎。
「会えなかったの……ですね」
朔夜の問いに、彼は静かに首肯した。
「話に聞いた場所に、家は確かにありました。そこに彼女の母親と兄弟も住んでいた。
彼らは私と再会できたことを喜んでくれました」
だが、彼らは婚約者の話になると顔を曇らせて黙り込んだと言う。
「頼むから忘れてくれと言われました。
でも、そんなことができるわけもなく、私は頑なに問い続けました」
指が袴を掴んで白みを帯びた。
やっと口を開いた母親の言葉に彼は愕然とした。
「彼女は……身売りに出されたと。隣町の遊郭へ…」
生活が逼迫して、彼女は自ら進んでその道を選んだらしい。まだ小さい兄弟たちにひもじい思いをさせたくないと。
さらに母親は泣きながら衝撃的な事実を告げた。
「彼女のお腹に…私との子ができていた、と」
袴を握る指が震える。唇をきつく引き結び、ぐっと目を閉じる。
思いがけない展開に、蛮骨と朔夜はかける言葉も見つからず呆然と聞いていた。
蛇骨も下手に口を挟んではいけない状況と察し、黙ってなりゆきを見ている。
昼間は努めて明るくふるまっていた誠太郎だが、今は憔悴しきっていた。
一年。長いようで短いその期間の間に、理解が追いつかないほど変化が生じている。
彼女はどんな思いで身を売ったのだろう。
自分が離れなければ、彼女を助け、支えられたはずなのに。
みるみる青くなっていく顔色。
「……でさぁ、人探してるってーことで良いのか? この状況」
複雑な空気の中に、妙に緊張の抜けた声が生じた。
飽きてしまったらしい蛇骨が片眉をあげて頬を掻いている。
彼はずかずかと誠太郎の前に進み出ると、腰に手を当て仁王立ちになった。
「お前さっきから何くよくよくよくよしてんだ」
「え……」
「探し人の居所、わかったんだろ? じゃあ簡単じゃねぇか。
さっさと会いに行けばいいだろ」
誠太郎が目を瞬かせ、蛮骨たちはぽかんとする。
「でも……遊郭から身請けするには大金が必要です。私にはとても」
「金がねぇなら実力行使で連れ帰りゃいいだろうが」
蛮骨は半眼になった。それでは人探しでなく人攫いだ。
だがしかし、蛇骨の言い分にも一理あった。
「まぁ、確かにな。隣町の郭といえば、随分絞られる。無理な話ではないな」
「それはそうですが……」
誠太郎の顔が情けなく歪んだ。
実力行使といっても、腕に覚えがあるわけではない。刀を持ったこともない。
蛮骨は顎に手を当てて思案した。
「暴力沙汰は下手をすると後を引く。上辺だけ脅せばいいだろう」
そして軽く嘆息した。
「その気があるなら、うちのを何人か貸してやる」
朔夜がはっとした様子で蛮骨を見上げた。誠太郎も目を見開いて彼を仰ぎ見る。
面倒くさそうな顔をしながらも、蛮骨は苦笑を浮かべた。
「あ、あなたたちは、一体……?」
誠太郎の問いににかっと笑ったのは蛇骨だ。
「泣く子も黙る七人隊だよ」
夕日がだいぶ傾いた。
細かな話し合いを後日に持ち越し、誠太郎と別れた三人は買い物も終えて家路を歩く。
「でも、蛇骨があんなこと言い出すなんて少し意外だったわ」
「確かに」
頷き合う蛮骨と朔夜。
普段なら自分から面倒事に首を突っ込もうとはせず、暇つぶし程度に傍から見ているだけの蛇骨が、珍しく正論っぽいことを言った。
しかも探し人は女だというのに。
蛇骨は頭の後ろで腕を組んで口を尖らせた。
「だぁって、話長くなりそうだったじゃねぇか。俺は早く鯖の味噌煮が食いてぇの」
立ち話に裂いている時間など、ないのだ。


狭い部屋の中。客の男と二人きりで過ごす。
格子窓の外に見える空はまだ青い。
美郷(みさと)。どうした、酌の手が止まっておる」
「あ、ごめんなさい……」
名を呼ばれて空を見ていた彼女は我に返り、酒瓶を傾けた。
町に数件ある遊郭の中でも小さな一軒。そこに身を置くようになってもうじき八ヶ月ほどになるだろうか。
「考え事か」
「いいえ」
「客をないがしろにして、いい御身分だな」
贔屓(ひいき)客である男は口の端を吊り上げる。
別に、美郷に入れ込んでいるわけでもない。女を見下して愉しんでいるのだ。
店の女たちの中でも値が低いから、美郷が選ばれているだけだ。
心中で歯を食いしばる美郷の肩が抱かれる。
「仕事も慣れただろう? 何人相手にした」
「いちいち覚えておりませんわ」
酒瓶を取り上げられて押し倒される。小さな廓で制限は厳しくない。外部にばれなければ大体のことは目を瞑られる。
「待ってくださいな。布団を敷きますから……」
「そんなものは俺が来た時点で敷いておけ。そんで三つ指ついて待ってるべきだ」
反吐が出る。
美郷の脳裏に一人の影が過ぎった。
夫婦になろうと約束した人。あの人はこんな男とは正反対だった。
彼女は目を閉じる。
いけない。もう彼のことは忘れると決めたのだ。こんな身体ではもう一緒になれない。
身を売った時点で覚悟を決めたはず。
思いを断ち切る様に、彼女は男の首に腕を回した。
一刻ほど相手をさせられて、疲労感を覚えながら彼女は帰っていく男の背を格子窓から眺めた。
手には小間物入れの奥に隠していた花簪を持ち、ゆらゆらと揺れる飾りをぼんやり見つめている。
思い出の品だ。ここへ来る時、捨てるべきかと散々に思い悩んで、結局手放せなかった。
でも、いつまでもそうしてはいられない。近いうちに処分しなければと頭の中で考え、その考えに心がつきりと痛みを覚える。
痛みを追い払うように簪を小間物入れに戻し、美郷は窓越しの四角い空を見た。
日が落ちればまた別の男が自分を買いに来るのだろう。
それでいい。金が欲しくて身を売ったのだから、客がつかないよりましだ。
溜息をつき、男に出した食事の膳と酒瓶を抱えて部屋の外へ出る。
廊下を厨房まで歩いている途中で、小間使いの男が駆け寄ってきた。
「ああ美郷、そこにいたんかい。あんたに会いてぇって客が来ている」
「え?」
小間使いは美郷の手から膳を預かり、早く行くようにと急かした。
言われるがまま彼女は店の玄関先へ向かう。
そしてその瞳が凍りついた。
「美郷……!」
忘れようと決めた彼が、一番会いたくて、会いたくなかった彼がそこにいた。
「誠太郎……さん」
「探したんだぞ! ああ良かった」
誠太郎は一息に彼女のもとへ駆け寄り、その手を両手で握り締めた。
温かい体温。一年ぶりに聞いた声。胸の内がどうしようもなく揺さぶられる。
店の番頭が訝しげに誠太郎を眺めながらも、部屋に上がって話すようにと言った。
美郷はほとんど頭が真っ白のまま、彼を自室に通した。
部屋に入るなり、誠太郎に抱き締められる。
「美郷…! 大丈夫だったか? 辛かっただろう。
すまない、一人にして、本当にすまなかった」
「せ、誠太郎さん。どうしてここが」
「お母上からこの町の遊郭にいると聞いて、一軒ずつ探し歩いていたんだ。
ここが最後の一軒だったんだが、ああ、会えて良かった…」
抱き締める腕に力がこもる。美郷もその背に手を回そうとして――しかしできなかった。
「もう、大丈夫だからな」
美郷の瞼が震えた。
「大丈夫って……何がですか?」
「え?」
思いがけず冷たい声音が耳に滑り込み、誠太郎は驚いて顔を離した。
「何が大丈夫なのです? あなたに、私や親兄弟を養うほどの財力はないでしょう?」
「た、確かに今は厳しいが。でも、何とかしてみせる。とにかく一緒に帰ろう」
「何とかなるのなら、私は身体を売ったりしませんでしたよ」
彼女は拒絶するように腕を突っぱね、誠太郎の身体を遠ざけた。
「ここがどんな場所か、おわかりでしょう」
「わかっているさ…。でも、お前がここでどんなことをしていたとしても、覚悟の上で来ている」
「つい四半刻前まで、私はこの部屋で男に抱かれていました」
誠太郎の表情が強張る。そして彼女の背後に乱れた寝床があるのを見てしまう。
そう、覚悟をしていると口では簡単に言えても、事実を突きつけられれば容易に崩れ去る。
「夕刻には別の男が来て、また抱かれるでしょう。
あなたに抱かれるよりずっと多く、私はここで春を売りました」
「それでも、私は変わらずお前を愛している!
お前がここで誰と何をしていたとしても、これからは私がずっと傍にいる。
これ以上辛い思いはさせない」
美郷はゆるく笑った。誠太郎が見たことのない笑みだった。
「やっぱりあなたはお優しい人。私はもう汚れきってしまったわ。
あなたの傍にいる資格なんてありません」
誠太郎は彼女の両肩を掴んで詰め寄った。
「何を言うんだ! これ以上ひとりで思い悩むことはない、帰って、約束のとおり夫婦になろう」
美郷は目を閉じる。なりたい、なれたならどんなに良いだろう。
「……私はお腹に、あなたとの子を授かりました」
はっとして、誠太郎が微笑む。
「ああ、お母上から聞いたよ。どう……なった?」
(あや)めました」
誠太郎の両目がひび割れる。肩に置いた手が力を失ってぽとりと落ちる。
「ここで働くには邪魔だったから……産んでも育てられないし。だから、産まれる前に」
誠太郎は返す言葉が見つからず口を開閉した。彼女を責めるつもりはない、それでも、動揺が隠せない。
彼が葛藤する姿をしばらく眺めていた美郷は、やがて一つ息を吐いた。
「子供よりお金が欲しかったんです。私はそういう女なの。
ここは女を買う場所。あなたも私を抱きますか? お代は頂きますけれど。
……その気がないのなら、帰ってください」

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