能俊はそわそわとして蛮骨を待っていた。
早朝、道場前。手には昨日渡された刀を握りしめている。
「あ、蛮骨殿!」
いつものようにのんびりした歩調でやってくる蛮骨を認め、能俊は待ち切れずに駆け寄った。
「おう、気合入ってるな」
「はいっ、こんなに早く真剣を手にすることができるとは思っておりませんでした」
能俊は緊張した面持ちで蛮骨が準備するのを見ている。
蛮骨は袴に(たすき)掛けで、稽古が始まって以来初めてそれらしい格好をしていた。
つまりは、自分がそれに見合うだけ成長できているということだろう。
手の平を広げ、そこにある沢山の肉刺を見つめる。これは努力の証だ。
嬉しさが表情に出ている能俊を見やり、蛮骨も我知らず頬が緩む。
最初は嫌々だったものが、成長を見るにつれ段々楽しくなっているのは事実だった。
「さーて、びしびししばくぞー」
「はいっ、よろしくお願いします!」
ここのところは本当に、天候に恵まれている。
道場の中でも稽古はできるが、そうすると他の者たちが遠慮をして入ってこれなくなってしまう。
なので、屋外での稽古は能俊としても気が楽だった。
まずは刀の重さに慣れるところから。ただ持っているだけでもずしりと重い。
さらに振り下ろしたり斬り上げたりしていれば、腕にかかる負担はかなりのものだ。
抜刀、納刀もぎこちないし、蛮骨と切り結べば衝撃で自分が後退してしまう始末。覚えることはまだまだ多い。
(でも、すごく自分に自信が持てる)
黒星ばかりの自分の戦歴にも、いつか白星が加わるかもしれない。
正午を少し過ぎた空の下、一心に刀を振っていると、ふいに周囲が騒がしくなった。
「……なんだ?」
向き合っていた蛮骨が構えを解き、声のする方へ顔を向ける。
ここは城の裏手なので、表で何が起こっているのかを見ることはできない。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。蛮骨と能俊は顔を見合わせる。
建物の向こうから駆けてきたのは、老臣の源兵衛だった。
「若! こんなところにいらっしゃいましたか!」
「どうしたのだ源兵衛? 何やら騒がしい様子だが……」
菜奈(なな)殿がお見えになられました」
「えぇっ!?」
能俊が目を丸くする。その横で蛮骨は首を傾けている。
「能俊、菜奈殿ってのは……」
「これ! 若君を呼び捨てにするなど……」
「源兵衛、某がお願いしたのではないか! すみません蛮骨殿、菜奈殿はその……某の許婚(いいなずけ)にございます」
「ああ、例の」
他国の姫君がはるばる、ご丁寧に事前の連絡も無しにいらっしゃったと、そういうことなのだろう。
蛮骨は能俊の手から刀を預かった。
「いいよ、行って来い」
「申し訳ありません。できるだけ早く戻ってくるので、そしたら稽古の続き、お願いします!」
すまなそうにしながらも、能俊の顔は嬉しそうだ。想い人に会える心境は蛮骨にもわかる。
急いで駆けていく背を見送っていた蛮骨を、唐突に源兵衛が小突いた。
本人は頭を狙いたかったようだが、身長が足らずに背中の微妙な位置をはたかれる。
目を向ければ、何やらむっとした顔で睨まれる。
「いくら若君が許しておられようと、限度というものがある! 『いいよ行って来い』? 『いいよ行って来い』とは何事か!!」
蛮骨は鬱陶(うっとう)しげに目をすがめた。
「若様が喜んでるんだから良いんじゃねぇですかね。これでも、立場はわきまえてるつもりですからご心配なく」
しれっと返す蛮骨に老臣は眉間のしわを深くする。蛮骨はそっと嘆息した。
「若君は幸せ者ですねー。源兵衛殿と言い空木殿と言い、すごく過保護な家臣に囲まれて。
俺だったらありがたすぎて肩が凝りそうだ」
「なんっ……」
傭兵風情に物言われ、苛々(いらいら)がありありと顔に滲み出てくる。
しかしそこは経験を積んだ老臣。ひとつ呼吸をすると、それらをぐっと飲み込んだ。
そしてむぅ、と考えるそぶりを見せる。
「空木、か……」
思うところがある様子の源兵衛に蛮骨が視線を投じる。
これで空木の愚痴に花を咲かせられたりしたら、面白いのだが。
「あれがやってきて、ちょうど三年になるかのう」
「三年か。他所(よそ)からきたのか?」
「うむ。病が流行したために人手が不足していてな。その折に、空木を含めた数人の若者が志願してきたのだ」
聞けば彼らは北国から諸国を渡り歩いてきたのだが、途中で追いはぎに遭遇し手荷物類を全て奪われてしまった、とのことだった。
通常ならばそんな素性の知れぬ者を城内で働かせたりはしない。
しかし猫の手も借りたいほどの忙しさであった。そして何よりも。
「若君が、雇ってみてはどうかと申されて」
困り果てた空木たちの様子に心を動かされたのだろう。
彼らは旅を続けることも、自国に帰ることもできない状態だったのだ。
彼らはもともと自国でも城仕えをしていたという話だった。
「雇った時は半信半疑だったが、それは杞憂(きゆう)であったな。とくに空木は、本当によく尽くしてくれたわい」
無愛想なところはあるが、いつも若君のことを気にかけ、ことあるごとに傍に控えている。
拾って頂いた恩を返したいという気持ちの表れだろうと、周囲も感心したものである。
何をやらせてもそつなくこなし、周りからの信頼も厚い。
一年経つ頃には、空木はすっかり家臣の一人として認められる地位を得た。
「ふーん」
蛮骨は半眼で適当な返事をする。あいつが褒められているのは面白くない。
「だがなぁ……」
源兵衛が小さくつぶやく。
「何か?」
「……いや、何でもないわ。
それよりも。今いちばん若君のお傍にいるのはお主なのだから、くれぐれも危険の無いように見張っておるのだぞ」
「へいへい」
投げやりに返事をし、蛮骨は踵を返した。能俊のお相手というのを見に行ってやろうと思う。
すたすたと去っていく彼の背中に、源兵衛の大きな溜め息がぶつけられた。

「お久しゅうございます、能俊様」
花のような愛らしい笑顔に、能俊も笑みをこぼす。
姫がやってきたと聞き、能俊は慌てて道着から着替え、彼女の待つ上階の自室へと向かった。
「菜奈殿もお変わりないようで、安心いたしました」
戦の期間中は姫と会うことも叶わなかった。
幼いころから事あるごとに顔を合わせて来たことを考えると、こんなに長い期間会わずにいたのは初めてかもしれない。
今はすっかり清楚で慎ましやかに成長した菜奈も、幼少の頃はかなりお転婆をしていたものだ。
どちらかというと大人しい性格の能俊を誘い出してはあっちへこっちへと遊びまわり、家臣たちを困らせていた。
そんな思い出に浸りつつ、能俊は少しばかり不安げな面持ちをする。
「しかし菜奈殿、いきなりいらっしゃるとは驚きましたよ。
戦が終わったばかりで城下もまだまだ慌ただしいでしょう、用心した方が」
「ええ、ご迷惑かもしれないとは思ったのですけれど……。
どうしても能俊様のご無事を確認したくて、使いの者に無理を言って付いてきたのです」
そうして、菜奈は心底嬉しげに微笑む。
「お怪我もございませんようで、何よりです。ほっとしました」
「そ、某などはずっと城内に籠もっていて、まったく役に立てず…恥ずかしくて兵たちに合わせる顔がありませんよ」
肩を落とす能俊の手を菜奈の両手がそっと包み込む。
「いいえ。私にとっては能俊様のご安泰(あんたい)こそが、なによりも大切なのですよ」
「菜奈殿……」
二人は本当に、心から互いを大事に思っていた。
(強くなりたい、せめてこの人を守れるくらいに)
心中で決意を新たにし、若君は顔を引き締めた。

「うーん、よく見えん……」
蛮骨が伸びをしたり目の上に手を(かざ)したりして天守の方を眺めているのを見て、睡骨はそっと嘆息した。
すると彼らの首領は半眼になって視線を向けてくる。
「なんだよ、野次馬はお前も同じだろうが」
「俺は野次馬と違う。部屋にいても蛇骨がうるせぇから外を歩いてたら、たまたまそこに姫様が訪ねてきたのに出くわしたんだ」
「おうおう、そういうことにしといてやるよ。……あ、見えた!」
なおも粘っていた蛮骨の声がわずかに弾む。
見上げると、姫が若君と共に廻縁(まわりえん)へ出てきている。城下を一望しているのだろう。
「へぇ、あれが能俊の奥方になる人なんだな。……ふっ」
不敵な笑いに、睡骨は再度視線を下げる。蛮骨の口端が吊り上がっている。
「朔夜の方がきれいで可愛くて品があるな」
睡骨は呆れたように二度目のため息をついて笑った。
一言「良い女」と言えば済むような気がするのだが。
「……で、お師匠は一体いつまで若君に稽古をつけるつもりなんだ?」
上階の二人を見上げつつ問うと、蛮骨がううむと唸る。
「次の仕事のあても無い内に出てくのも勿体無い気がするんだよな。
まぁ、あてが無いなら無いなりに朔夜のとこへ帰っても一向に構わないんだが」
そうしないのは、蛮骨が多少なりとも今の仕事に責任を感じているからだ。
元来が責任感の強い性格であるので、能俊を中途半端にして引き揚げるのも気が引けるのだろう。
やれやれと肩をすくめ、睡骨は踵を返した。
「睡骨、居心地が悪いなら言えよ?
俺の都合でお前たちにまで迷惑を(こうむ)らせるつもりはねぇからな」
「ああ、いやいや。若干退屈なだけだ、特に不自由はねぇよ。
大兄貴の気が済むようにやってくれて結構だぜ」
後ろ手に軽く手を振り、睡骨は城の中へと戻っていく。
蛮骨はしばらくその背を見送っていたが、やがて再び二人に視線を戻した。
二人は城下を眺めながら、とても和やかな雰囲気で会話を楽しんでいる。
「……朔夜、待ってるだろうなぁ」
首のあたりを掻き、わずかに目を伏せる。
この空き時間を利用して、文でも書こう。
ひとつ頷いて、蛮骨もまた自室へと歩きだした。

能俊はできるだけ早く、歩いていた。
目指しているのは城の裏手、道場のある場所だ。
こちらの都合で待たせてしまっているので、早く行かねばと思う。
思うのだが、姫が来ている手前、廊下をばたばたと走るのも(はばか)られる。
ので、できるだけ早く、歩いているのだ。
「あ、でも。自室におられるかもしれないな……」
そう気づいた時には、すでに庭に出てしまっていた。
少しだけ迷ったが、せっかくここまで出てきたので、一応道場の方も確認してから部屋を訪ねてみようということで能俊はそのまま小走りになる。
すると、道場に行きつく前に目的の人物を見つけることができた。
「蛮骨殿!」
「ん? おう、もういいのか?」
こちらに身体を向けた蛮骨の腕には、一羽の鳥がとまっていた。
興味津々にそれを見つめる若君に気付き、蛮骨は彼に同じように腕を出させて鳥をそちらへ移す。
「この鳥は……?」
「ハヤブサの凪。少しそのままで」
蛮骨は能俊の腕にとまる凪の足に文を結びつけた。
「へぇ、ハヤブサですか。こんなに近くで見るのは初めてです」
凪もまた興味深げに能俊を見上げている。しかし、蛮骨に呼ばれると即座にそちらへ視線を戻した。
「じゃあ頼むぞ、凪」
ピィと鳴き、凪は若君の腕を飛び立った。
彼らの頭上を何度か旋回した後に彼方へ旅立っていく。
「あの文は朔夜殿へですか?」
「ああ、あれが運んでくれるから助かるな」
「ハヤブサを手懐けているなんて、やっぱりすごいなぁ」
本当はこれに加えてでかい狼がいたり纏わりついてくる小妖怪がいたりするのだが、あえてそれは口にせずに蛮骨は「そうだろう」と返した。
「で、姫様のところには居なくていいのか?」
「大丈夫です、これ以上蛮骨殿をお待たせするわけにもいきませんし」
自分は大事な人を守るために強くなりたいのだ。だから、蛮骨が滞在している間に少しでも多くのことを学びたい。
蛮骨がそうかと応じ、二人は連れ立って道場へ向かった。
再び真剣を構え、能俊は気持ちを入れ替える。
「よし、どっからでもかかってこい」
刀を峰に携えた蛮骨が何ともなげな風情で指示した。
「よ、よろしいのですか」
少しだけ心配そうな能俊に目を瞬かせ、蛮骨は嘆息しつつ肩をすくめる。
「気を使わなくていい。お前が俺に傷を負わせるなんて百年早ぇよ」
「はい!」
真剣で打ち合う澄んだ響きが、夕暮れ過ぎまで辺りに響いていた。


戦に勝利した日から、早くも二十日あまりが経過しようとしていた。
よく晴れた空の下、霧骨が(つづら)を背負って野道を歩いている。
城の者たちは今でも雑事に追われて忙しそうにしているが、七人隊にはさほど関係がない。
ので、最近は1日のほとんどをこうして野草刈りに費やしていた。
城の敷地内では毒の調合もできないので、現地でそのまま調合をしたりもする。
「大兄貴のおかげで自由気ままな毎日だぜ」
うまい酒も飲めるし食事にも困らず、夜は暖かい布団で過ごせる。たまにはこういう日々も悪くない。
「ここに朔夜がいれば、大兄貴としても満足なんだろうがなぁ」
そういえば先日、凪が文を携えて帰ってきた。
盗み見した蛇骨によると、一日暇をもらってそちらへ帰ろうかと提案した蛮骨に対し、朔夜は
「いいえ、あなたのお仕事が終わってからにしてください」
と返したそうだ。
それを読んだ我らが首領はほんの一瞬しょげていたらしいが、すぐに「なら頑張ろう」と気を取り直したようである。
『頑張って若様をご指導してさしあげてね、お師匠様。て書いてあってさぁ。大兄貴の顔が面白いぐらいニヤけてたんだぜ』
蛇骨が肩を揺らしながら語っていた。自分もその場に立ち会いたかったものである。
「お、あれは」
目当ての木の実を発見し、草をかきわけその木に歩み寄る。
修行も、もうじき終わるだろう。時折練習風景を眺めているが、若君の動きは初期に比べると格段に良くなっている。
「すげぇよなぁ。たった半月そこらで本当に上達させちまって」
それについていく若君も中々のものだ。
感嘆の言葉を呟きつつ木の実に手を伸ばしかけた霧骨の耳に、その時誰かの話声が滑り込んできた。
「……?」
怪訝に視線を巡らせる。
この辺りは城下からも随分離れている。戦があってから間もない今、敵国の国境(くにざかい)にも近いこの場所に人がいるのだろうか。
ならば自分はどうなのかと問われそうだが、その点に関しては疑問を抱かない霧骨である。
とりあえず、霧骨は声が聞こえたと思しき方向へ足を向けた。
敵国を見張っている者たちが近くにいるのかもしれない。
人がいるならば無闇に毒の調合をするわけにもいかない。
しばらく進むと、茂みの向こう、木々の挟間に人影が見えた。
「ありゃあ……」
霧骨は眉をひそめる。後姿ではあるが、その人物に見覚えがある。
蛮骨がしきりに不満を漏らしていたので、興味を持って蛇骨と共に遠目に眺めていたことがある。
名を確か、空木といったか。
彼は城仕えの袴姿ではなく、着流しの格好だ。今日は非番なのだろう。
なぜこんな場所にいるのか。
草木の間に身を隠し、様子を窺う。
空木の正面には他にも何人かがいて、何事かを話し合っているようだ。
何となく気になり、霧骨は耳をそばだててみる。
「……ぬしらが何も報告せぬうちに戦が始まり、見よ、このありさまだ」
最初に耳に滑り込んだのは空木の低い声だ。
その言葉を機に、彼の前に立っていた者たちがすっと片膝をついた。
「申し訳ありません」
その者たちの姿は黒衣に黒頭巾、顔の下半分も同じく黒い布で覆われ、森の闇に溶け込むような出で立ちである。
(忍び……か?)
眉根を寄せた霧骨だが、次に紡がれた言に目を見張る。
「まさか七人隊の加勢があるとは思わず、こちらでも混乱が生じておりましたゆえ」
「しかし、今ならば城の者たちの気も(ゆる)んでいましょう」
「うむ…」
空木は顔を歪め、忌々(いまいま)しげに呟く。
「七人隊め、いつまで居座るつもりだ……」
霧骨は背中に嫌な汗が滲むのを感じた。
七人隊がいなかったら、何だというのだ。
あの黒ずくめ達は十中八九敵国の者だろう。ならば、彼らとこうしてやりとりている空木は何者だ。
空木は膝をつく忍びたちを見下ろし、次いで城の方向へ視線をくれた。
「邪魔者が去ってから実行するべきかと思っていたが、そう悠長にもしておれまい。近く実行に移す」
「はっ」
霧骨は足音を立てずに、そろそろとその場を後にした。
十分に距離が取れたと思われると徐々に歩調を早め、城への道を駆け戻っていく。
「こりゃあ兄貴たちに知らせねぇと」
今の会話を聞くに、空木が敵の手の物であることは明白だ。
そして彼らは、自分たち七人隊がいようといなくとも関係なく、何かを起こすつもりらしい。
蛮骨からの評価はともかくとし、空木は城中でも信頼の厚い家臣である。
放っておけば恐らくは彼の企みどおりになるのではないだろうか。
野道を走る霧骨の足元に、不意に何かが降ってきた。
「っ――!?」
思わず立ち止まって見てみると、それは忍びが使用する苦無(くない)であった。
はっとして頭上を見上げる。木々の枝の上に、黒装束の忍びたちの姿が見えた。
「聞いていたな」
「ちっ」
霧骨は護身用に腰に下げていた小型の毒筒に手を伸ばす。それを掴んで――
「ぐぅっ……」
ぐらりと視界が歪んだ。
首もとに叩き込まれた手刀。さまよう視界の端に見えたのは、空木だ。
「てめ……いつの、まに……」
頭上を見ていたとて、周囲への注意を怠っていたわけでは決してない。
自分も七人隊の一人だ、敵の気配を探るには並以上の能力を持っているはずなのに。
一瞬で間合いを詰められたのか。文官であるこの男に。
力なく倒れる霧骨を空木は無感情な眼差しで見ている。
「こやつは、七人隊の者だな」
「なんと……では、とどめを入れますか」
忍びの一人が彼の傍らに降り立ち、忍刀を差し出した。
それを受け取り、空木は低く命じる。
「ここはもう良い。ぬしらは国へ戻り、早く次の報告を」
「はっ」
忍びの気配が一斉に遠ざかってゆく。霧骨は必死で土を掻いたが、身体が麻痺したかのように言うことを聞かない。
「ちくしょう……うつ、ぎ……」
呪うような視線を向けるも、空木の双眸に感情の変化は現れない。刀を構え、霧骨のすぐ横に片膝をつく。
視界がぐらつく。空木の姿が何重にも見えて、正確な距離がわからない。
刃が木漏れ日をはじいて白く輝いたと同時に、霧骨は意識を失った。

「霧骨が戻らねぇ?」
蛮骨は目を瞬かせた。
夜分。遠慮も無しに部屋へずかずかと上がり込み、現在進行形でくつろいでいる蛇骨が持ってきたただ一つの話題である。
「山の方に行ったんだっけか。放っておきゃあそのうち帰ってくるだろ」
「でもよぉ、外はもうあんなに暗いんだぜ。森ん中で右も左もわからなくなってんじゃねぇの」
想像してほくそ笑んでいる蛇骨だが、ほんのわずかの心配はしているのだろう。
蛮骨も彼の視線を追って外を見やった。
晴れていて雲も少ない。月明かりもあるし、見通しが全くきかないような闇ではないが。
戦から日にちが経っているとはいえ、残党がどこかに潜んでいないとも限らないのも確かだ。
「仕方ねぇな。蒼空(そら)を呼んで探しにいかせ……」
腰を上げようとした蛮骨の動きが止まる。
「ん? どうかしたのか」
「いや、何か臭いがしたような」
開いた窓から風に乗って一瞬だけ鼻をついた臭い。
その正体が何であるのか、気のせいなのか否かを判断するよりも早く、窓の向こうの夜闇がぼうっと明るくなった。
「……」
「……」
無言で顔を見合わせ、蛮骨と蛇骨は屋外に面する板戸を開けて縁側から顔を覗かせた。
二つ部屋を挟んだ先あたりの縁側でまばゆい炎がはぜている。あれは睡骨の部屋だったような。
足のすぐ先には先ほどと同じ臭いを放つ液体が染みていて。
炎は数瞬の後に、風のような速さでこちらへ向かってきた。
「いやいやいやいや!!」
仰天した二人は全力で頭を振り、急いで表へ飛び出した。今までいた場所があっという間に炎に呑まれる。
「煉骨たちは……」
「大兄貴、蛇骨!」
離れた場所から呼びかけが生じる。視線を投じれば、霧骨を除く仲間たちがいた。
煉骨などは急いで書物やら設計図やらを詰め込んだ葛篭を背負い、九死に一生を得たような顔をしている。
「無事だったか」
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、蛮骨は炎が燃え広がりつつある縁側から屋内にかけてを睨み据えた。
先ほど感じた臭気は間違いなく油のものだろう。それが撒かれているのは自分たちが使っている部屋を中心とした一帯。
(七人隊を狙ったのか……?)
嫌な予感がした。
「大兄貴、ここの消火は俺らで何とかする。表の様子を見てきた方が良いんじゃないか」
「ああ、頼む」
睡骨の進言に甘え、蛮骨は駆け出した。
他の部屋からも休んでいた傭兵たちが続々と飛び出し、消火作業に手を貸している。
火の勢いを見ても、たった今放火されたばかりのように思われる。煉骨たちが上手く指揮すれば大した被害もなく鎮火するだろう。
すぐ近くに放火した者が潜んでいるかもしれない。
角を曲がった瞬間、視界の隅で何かが(ひらめ)いた。
反射的に地を蹴ると、一寸前にいた場所へ鈍く光る刃物が突き刺さる。
「誰だ、ふざけた真似を…」
剣呑(けんのん)に唸る蛮骨の眼前にいくつかの影が降り立つ。
闇に溶け込むような黒装束。蛮骨の眉がぴくりと動く。
あれは先の戦の折に見かけた敵軍の忍が着ていたものではなかったか。
「俺を七人隊首領と知ってのことだろうな」
「先へは行かせぬ」
確実に、表で何か事を起こそうとしている。またはすでに何事かが生じているのか。
丸腰で鎧も身につけてはいなかったが、蛮骨の顔には空恐ろしくも静かな笑みが滲んでいた。
「面白ぇ」

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