長雨

「へぇっくしっ!」
特大のくしゃみと共に、琴吹が身体をすくめた。
「なんでぇ。色気のねぇくしゃみだな」
「うるさいね。放っといとくれ」
溜息まじりの玄次郎をひと睨みして、
「女は冷えに弱いんだよ。不便ったらありゃしない」
などとごちる琴吹を隼人が振り返る。
「風邪か? 熱は」
「大丈夫。ぴんぴんしてるよ」
とは言いつつも、空気は日増しに冷え込んでいる。少し前は夜中に寒さをしのげば何とかなったが、最近はそうもいかない。
鮮やかに色付いた木々の葉を見上げつつ、どうしたものかと隼人は思案に暮れた。
旅立った当初は、もっと早く港町へ辿り着いて、九州や四国へも高跳びできると考えていた。
だが予想以上に執拗な追手のために遠回りを余儀なくされ、道行きもあえて悪路を選ばねばならない状況である。
秋雪は後ろを歩く鋼愧(こうぎ)を見上げた。
「鋼愧はどうですか。辛ければ言ってください」
「ああ、平気だ。足を引っ張っちまって済まねぇ」
「そんな、大したものです。まだ本調子じゃないでしょうに、しっかりついて来ているのですから」
鋼愧は照れたようにぎくしゃくとした笑みを浮かべた。
だが秋雪の言うように、傷は癒えきっていない。人間離れした回復力を以ってしても、満足に歩き続けるには相当の気力が必要だった。
一行の何処となく不安な気持ちを代弁するかのように、空を暗い雲が覆い始めた。
空気が水気を帯び、すぐにも雨滴を落としそうな気配だ。
軽く顔をしかめ、隼人が皆を振り向く。
「先に行って雨宿りできそうな場所を探してくる」
言うが早いか、即座に駆け出して行ってしまった。すぐさま蒼空(そら)がその後を追う。
「あ、隼人!」
呼び止めようとした時には既に遙か彼方である。
「雨宿りか。こんな山奥にちょうどいい場所があるかねぇ」
洞穴でも見つかれば御の字といったところだ。
残された面々もまた、それらしい場所がないか周囲に気を配りながら先を急いだ。

ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
滴は次第に大きくなり、肌に当たる頻度も増していく。
隼人は落胆した様子で空を見上げた。
「見つからないな……そう都合よくあるわけもないか」
木々が枝葉を伸ばしているおかげで平地よりは濡れずに済んでいるが、今夜はだいぶ冷えるだろう。小太郎が風邪を引くかもしれないし、鋼愧の身体にも障りそうだ。
肩を落としつつ踵を返そうとした時、小さな音が彼の耳に滑り込んだ。
「……?」
足下にいる蒼空も耳を立てて不思議そうに周囲を見回している。
ごー…ん。
また聞こえた。
ごーん。
規則的な間隔をもって生じる音。隼人の表情がぱっと明るくなった。
手近な木にひょいと登り高所から改めて見回すと、予想していたものが見つかって思わず顔がほころぶ。
方向を確かめて枝から飛び降りるや、そちらに駆け出す。
「蒼空、行くぞ」
一声鳴いて蒼空も後に続いた。
記憶した方角を頼りに進むにつれ、音は近くなった。
ごーん………ごーん………ごーん
鐘の音だ。寺か何かがあるのだ。鐘をつく人間もいるはず。
ふと、その人間が自分たちの事を知っていたらどうしようかと思った。
町ではあれだけ手配書がばらまかれている。人里離れていても油断はできない。
できる限り穏便に済ませたいところだが、口止めの見返りに払える金品もない状態だった。
(最悪の場合は――――)
走る速度はそのままに、刀の柄を支える手が少しだけ握り込まれた。
音のもとにたどり着いたのは、全身がすっかり濡れ鼠になってしまった頃だった。
木々が開けてそこに長い石段が伸びている。その先の塀の奥には確かに鐘楼らしき屋根が窺えた。
「どなたかな」
呼吸を整えて一段目を踏み出した時、横合いから声がかかった。
はっとしてそちらを振り向くと、年季の入った傘を手にした老人が佇んでいた。黒衣に袈裟を纏った姿から、この寺の人間だと分かる。
「おやおや、そんなに濡れてしまって。御客人か?」
雨の中を歩み寄ってきた法衣の老人は隼人に傘を差しかけ、その顔を覗きこんだ。
「た、旅の途中で雨に降られてしまって……できれば、雨をしのがせて欲しいんだが」
「ほう」
「人数が多いから、中に入れてくれとは言わない。軒先でも、物置きでも構わない」
老人はほけほけと笑った。
「それは大変でしたのう。どうぞ、うちの寺で身体を休めて行きなされ。
わしはこの寺の住職じゃ。遠慮はいらぬよ」
隼人はほっと安堵の息をついた。
「すまない、助かった……。連れを呼んでくる」
頭を下げて、隼人は身を翻した。それを和尚が呼びとめる。
「ああ、お待ちなされ。これを」
差し出されたのは住職が差していた傘だった。
「え、だけど……」
隼人は石段を見上げた。寺の境内まではまだ距離がありそうで、傘無しでは帰るまでに濡れてしまうだろう。
「構わぬ構わぬ。早くお連れの方々に知らせてやりなさい」
半ば押し付けられるような形で、隼人は傘を受け取った。

「まさかこんな上等の寝床が見つかるなんてね」
髪から零れる滴を拭き取りながら琴吹が嬉しそうに呟いた。
あの後、傘を片手に走った隼人と蒼空は仲間たちと合流し、できる限りの急ぎ足で寺へ引き返してきた。他の面々も隼人同様びしょ濡れで、建物の屋根の下に入った瞬間誰もがほっと一息ついた。
一行は住職が用意してくれていた囲炉裏に当たり、冷えた身体を温めている。
外ではいよいよ本格的に降り出した雨が滝のような音を響かせていた。
「丁度よく鐘の音が聞こえなかったら気付かなかった」
小太郎の着替えを手伝いながら隼人も安堵の表情だ。
そこへ住職が小僧を伴って部屋を訪れた。二人の小僧は手にした盆から熱い茶を渡し歩いた後、住職の後ろに控えた。
「落ち着かれましたかな。寒くはありませぬか」
「お陰様で助かりました。土地勘がないもので、こちらに辿り着けたのは本当に運が良かった」
秋雪が丁寧に礼を述べると、住職はにこやかに相好を崩す。
「儂は住職の弘徳(こうとく)と申します。寺におるのは儂と、小僧らが数名。
滅多に客人などありませぬゆえ、至らぬ事もありましょうが、好きなだけ身体を休めておゆきなされ」
「ありがたい。いきなり大所帯で訪れてしまってご迷惑でしょうが、しばし御厄介になります」
弘徳が控えの小僧らに布団と火にくべる薪の用意を言いつけると、二人はぱたぱたと部屋を出ていった。
「旅をしておられるようだが、どちらを目指していたのかな?」
「京を目指しております。旅芸人をしているもので」
秋雪がしれっとついた嘘に、隼人は一瞬だけ遠い目をした。しかし弘徳はというと、妙に納得したらしい。
確かにこのちぐはぐな一行は、寄せ集めでできた旅芸人の一座というのが一番しっくりくるかもしれない。
「なるほど。ではあと一息というところで足止めを食らってしまわれましたな」
「足止め?」
煉が訝しげに聞き返す。雨が降ってはいるが、明日か明後日には止むだろうに、少し大げさな気がする。
「先ほど近くの川の様子を見に行ったのです。その帰りに隼人殿と出くわしましてな。
案の定、川が氾濫しておりました」
住職の言葉に一同は唖然とした。
弘徳によると少し歩いた先に大きな川があり、そこは山中の支流の合流点になっているらしく、少しの雨でもすぐに溢れてしまうらしい。酷いときには寺の敷地のすぐ脇まで水が迫ることもあるのだという。
「さすがにそこまで酷くはならぬでしょうが、渡れるようになるまでは数日かかりましょう」
「そんな……」
「焦る気持ちもわかるが、こればかりはどうにもなりませぬ。良い機会と思って、休養していきなされ」
朗らかに笑った弘徳は、夕餉の支度ができたら呼ぶと言い置いて部屋を後にした。
「何てこった」
弘徳の足音が遠ざかるのを待って、隼人が苦虫を噛んだ顔で呻いた。
雨はつい一刻ほど前に降りだしたばかりだというのに、もう川が氾濫しているとは相当だ。
「こんな所にいたら、役人どもに追いつかれるかもしれねぇ」
「ですが、下手に動くのも危険です」
煉と秋雪も難しい表情をしている。玄次郎が肩を竦めて息を吐いた。
「少なくとも坊主と小僧はこっちの素性を知らねぇようだ。
追手の野郎共も雨で自由に動けねぇだろうし、数日くらいなら何とかなるんじゃねぇか?」
「だと良いが……」
小太郎の髪を拭きながら隼人が物憂げに返したとき、くちゅんっ、という音が部屋に響いた。
ややあって、もう一度響く。
「っくし!」
見れば琴吹が鼻の辺りを袂で覆っている。隼人が近づいて顔を覗きこんだ。
「琴吹、お前やっぱり風邪だろ。濡れたから悪化したんじゃないか」
「風邪なんか引いちゃいないよ」
「でも、少し顔も赤い。早いとこ着替えて寝てろ」
「風邪だとしても、別に平気だって。そんな、寝込むなんて大袈裟な」
隼人は半眼になった。琴吹は変なところで頑固だ。
「お前が平気でも、こっちに移されたら困るだろ。せっかく布団もあるんだし、寝とけ」
あくまで休ませるために言ったのだが、今度は琴吹が不機嫌そうにそっぽをむいた。
「兄さんは甘いんだから。お坊ちゃんは病気になればすぐにお布団で看病してもらえたかい。
あたしはそんなヤワじゃないよ」
「はあ!?何でそうなるんだよ」
「それとも、女だから優しくしなきゃいけないとでも?そういう扱いはごめんだよ」
「琴吹、いい加減にしろ」
横合いから煉の低い声が滑り込み、二人は咄嗟に口を噤んだ。
しばし重い沈黙が流れたが、琴吹はおもむろに立ち上がり、「疲れたから寝る」と言い残してすたすたと部屋を出て行った。
彼女が出て言った方向を眺め、秋雪が案じる風情で呟く。
「どうしたんでしょうか」
「さあ」
隼人がもとの位置に戻ると、小太郎が心配そうに見上げてきた。
「お兄ちゃん、けんか?」
「違う違う。琴吹、少し疲れてたんだよ。俺がしつこくしたから怒られた」
「でも」
「良いから良いから」
納得がいかないという目をする小太郎に微笑み、今度は自分の身体を拭き始める。
途中、憮然としている煉に気付いて、苦笑を浮かべた。
「俺も悪かったって。煉までそんな顔してどうする」
「けど、お前だって……嫌な思いをしただろ」
煉は琴吹が隼人に向けた言葉を思い出して口をへの字に曲げる。
「まぁ……でも、俺の生まれとか家柄とか聞けば、そう思っても仕方ねぇかもな……」
「決して楽に生きてきたわけじゃねぇんだ。あんなこと言われる筋合いはねぇぞ」
「もう良いさ、忘れろ。お前らも今のうちに休んどけよ」
軽く手を振ると、煉はむすっとした態度を崩さぬまま、ごろりと横になった。


どうして怒られるのだろう。どうして睨まれるのだろう。
どうして刺すような言葉を浴びせられて、邪魔者のように扱われて。

どうして――
嫌われているのだろう。

隼人の前で子供が泣いている。ひとりで、誰もいない部屋の隅で声を殺している。
どうして、どうして。
辛くて辛くてどうしようもないその子に、しかし隼人は声を掛けられなかった。
どうして、というその問いの答えが、隼人にも分からなかった。
分かっていればこんなことにはならなかったかもしれない。違う未来だったかもしれない。
子供が振り返ってくしゃくしゃの顔で隼人を見上げた。
「どうしたら……父上は許してくれるの」
引きつるような痛みが胸をついた。
「そんなの……」
俺も知らない。

ゆっくりと目を開けて、隼人は二、三度瞬きをした。
寝返りを打って仰向けになり、天井をぼうっと見上げる。
目元にかかる髪を掻きあげて重く息を吐く。
何という夢を見ているのだ。
未だに過去を引きずっている。もういない人の影にいつまでも怯えている。
自分で、手に掛けたくせに。
「許してなんかもらえねぇよ……一生」
あの人は、自分の存在自体を嫌っていたのだから。息子と思っていたかも怪しい。
身体を起こして障子戸の外を見る。雨は勢いをやや弱め、しとしとと降り続いていた。
まだ夕餉までは時間がありそうだ。
「お兄ちゃん」
くい、と袖を引かれて下を見やれば小太郎がいた。
「起きてたのか」
「うん、あまりねたら、夜にねれなくなるんだよ」
「それもそうか。……で、どうした?」
問うと、小太郎はわずかに逡巡した様子を見せたが、意を決して口を開いた。
「あのねお兄ちゃん。……ひ、ひまだなぁって」
隼人の目が(しばたた)かれる。小太郎は口を引き結んで視線を泳がせている。
ややあって、兄は小さく笑った。
「暇か。そうか。そうだよな」
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るんだ?」
「だって……みんなもお兄ちゃんもつかれてるから」
小さな手がぎゅっと着物の裾を握り込んでいる。
わがままを言っていることに後ろめたさを感じているらしい。
隼人は膝をついて弟と視線を合わせると、柔らかく笑んでその頭を撫でた。
「そんなこと気にしなくて良いよ」
「おこらない?」
「怒るわけないだろ」
ようやくほっとしたように、小太郎も笑った。
そういえば、この小さな弟から退屈だなどと言われたのは初めてだった。
そんな些細なわがままさえ、この旅の間ずっと一緒にいても聞いたことがなかった。
今だって、眠っている皆に気を遣って大人しくしていたのだろう。
小太郎が口にしないだけで、沢山の辛抱をさせてしまっている。
本来なら不満や文句をはばかりなく言う年頃だろうに、聡い小太郎はそれらを呑み込まなければならない状況を肌で察しているのだろう。
「夕餉まで、寺の中を見てまわるか」
小太郎が顔をぱっと輝かせた。
「うん」
さっそく兄の手を引いて廊下に出る。山奥の古い寺を探検できるとあって、好奇心がうずくらしい。
庭に面した廊下をきょろきょろしながら歩き進む。古びているが、結構な広さを有するようだ。
廊下を曲がった先に鐘楼が現れた。使い込まれた大きな鐘が吊り下がっているのを見て小太郎の目がきらきらする。
「うわあぁ」
「おや」
廊下の向こうから声がかかった。弘徳がこちらへやってくる。
「あっ、おしょうさま!」
「すまない、勝手に見物させてもらっている」
隼人が頭を下げると弘徳はほけほけと笑った。
「構わぬよ。好きなだけ歩き回ってくだされ。雨が上がったら、あの鐘を突かせてあげよう」
「ほんとう!?」
小太郎がそれは嬉しそうな顔をするのを見て、隼人も思わず頬が緩む。
では、と軽く会釈して弘徳は庫裏(くり)の方へ去って行った。
二人も探検を再開し、小僧たちが読経の練習をしている風景を覗いたり、掛け軸や絵巻が飾られた部屋を見物したり、仏像を眺めたりして過ごした。
大きな観音像を前にして、隼人は静かに手を合わせた。小太郎がそれをじっと見上げて、自分も同じようにする。
その後二人はあてがわれた部屋の縁側に座って、夕餉の呼びかけが来るのを待った。
「小太郎、一つ()きたいんだが」
小太郎がぱちりと瞬きして首を傾けた。
「わがままを言って、怒られたことがあるのか?」
先ほど小太郎が隼人に謝ったり、怒らないのかと訊いてきた時から、何となく気になっていたことだった。
我がままが過ぎて怒られることなど、子供のうちなら誰にでもあるだろう。だが、小太郎の雰囲気はそれとはどこか違う、怯えた様子があった。
「……うん。ならいごとがたくさんあって。なんだかつかれちゃってさ。
たまには友だちとあそびたいって言ったら、母上にすごく怒られたんだ」
隼人の目が(みは)られる。
「ほかの子よりもうまくできなきゃだめだって。ぼくは父うえのあとを継ぐんだからって」
「そんな……」
自分と違って、小太郎は大切に、自由に育てられていたと思っていた。きっと父もお染もそのつもりだったに違いない。
だが実際は、お染の凝り固まった見栄の矛先にされていたのか。
何が何でも、隼人ではなく小太郎を後継にする。皆にそれを認めさせる。
全てにおいて自分の子が一番だと言われなければ気が済まなかったのだろう。
そんなことをしなくても、後継者争いになどなるわけがなかったのに。
(俺はあの家のことなんかどうでも良かったのに……)
「でもねお兄ちゃん、ぼく、今はすごくたのしいよ」
「楽しい……?」
うんと頷いて、小太郎はにこにこと微笑む。
「お兄ちゃんと仲よくなれたとき、すごくうれしかったんだ。
こんなお兄ちゃんがいるんだって知って、ともだちにじまんしたかったよ。
今はお兄ちゃんとずっと一緒にいられるし、他のみんなもそばにいてくれるし。
知らないものがたくさん見られるし、雨のなかをはしりまわるのも、お寺を探検するのもはじめてだよ」
穢れの無い無垢な笑顔が、隼人の心をとかしていくようだった。
隼人は弟の身体を抱き寄せて、何度も撫でながら泣き笑いにも似た表情で微笑んだ。
「うん。楽しいな……俺も、楽しいよ」

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