皆につられて自分も一眠りし、目を覚ましたら隼人の姿が無くなっていた。
小太郎もいないので二人でどこかに行ったのだろうと見当をつけ、秋雪は腕を伸ばして身体をほぐす。
そうして、そういえば琴吹はどうしてるだろうかと思い彼女の部屋を訪ねた。
外から声をかけ、少し障子戸を開けて様子を窺う。
「秋雪さんかい?」
視界にある盛り上がった布団から声が生じて、琴吹がゆっくり上体を起こす。
その顔はさっきよりも赤みを増していた。
「調子はどうです。私から見ても風邪のように思いますが……」
「うん……」
気まずそうな返事が返るが、鼻声だ。
「身体がだるい。夕餉は遠慮しとくよ」
そう言って、ふらふらと再び布団に沈む。
「大丈夫ですか、随分悪そうですね」
「気が抜けたら一気に酷くなっちまった。……兄さんには酷いこと言っちゃったよ」
「隼人よりも煉の方が怒ってましたが」
苦笑すると、布団を被り直した琴吹もつられて笑った。
「そういやそうだった。
あたし、女だからって下に見られたり、余計な心配をされるのが大嫌いでさ……」
「隼人は琴吹が女性だから心配しているのではありません」
「うん、誰にでも同じことを言ったと思う。なのに、ついかっとなって、馬鹿みたいだね」
ふうと嘆息して、彼女は天井を見上げた。
「慣れてないんだよね、優しくされるの。
町では子分たちに慕われてたけど、それは私が親分だったからで」
「あなたも色々と苦労してきたのでしょうね」
「これでもあたし、昔は夢見る少女だったんだよ」
これには秋雪も意外そうな顔をする。その反応を見て琴吹はくすくすと笑う。
「母親が女郎でさ。あたしは女郎屋生まれ女郎屋育ち、小さい頃から男の相手をさせられてきた。結構人気もあって、貢ぎ物や欲しい物はいくらでも手に入ったもんだよ」
遠くを見るような目で天井を見ている。
「生まれた時からそういう世界しか知らなかったの。
それで、何を勘違いしたんだか、媚さえ売れば男は優しくしてくれるのだと思ってしまったんだ」
本当に欲しているものに、琴吹はある日気付いた。女郎生活からの解放と、自分だけを大事に想ってくれる人。そしてそれらも、望みさえすれば難なく手に入れられると思っていた。
「思った通り、そう時間も経たずに、一人の男があたしと一緒になりたいと言ってきたんだ。こっちも好いていたし、とても嬉しかったよ。でもその人にはお金がなくてさ」
その頃店で一番人気になっていた琴吹を身請(みう)けするには多額の金がいる。男は、いっそ駆け落ちしようと琴吹に申し出た。琴吹も迷うことなくそれに賛同した。
欲しいものが手に入るのだ、断る理由は無かった。
「満月の夜、橋のたもとで落ち合おうって。あの時のあたし、夢物語の主人公にでもなった気分だった」
琴吹から自嘲気味な笑いが漏れる。
「それで、駆け落ちは成功したのですか」
秋雪が薬を煎じながら問う。琴吹がここにいるからには良い結果にはならなかったのだろうが、興味は湧いた。
「約束の場所に、人目を盗んで行った。夜にまぎれる着物を着て、荷物は最小限で。儲けた金はもちろん全部持った。で、橋についたら……誰がいたと思う?」
「その男性ではなかった?」
「うちの店の旦那が、用心棒をいっぱい従えてそこにいたのさ」
店主は憎悪に燃える目で琴吹を睨んでいた。
意味が分からなかった。
逃げる途中で誰かにばれたのか。男との会話を聞かれたのか。
ぐるぐると混乱する琴吹に、店主が叫んだ。
『琴吹!お前、裏切りやがったな!誰が小せぇ頃から世話してやったと思ってやがる。
お前がこっから出るのは、女の価値が無くなるまで稼いで、たんまり身請け金を店に入れてからだ!』
琴吹は必死に逃げた。ただただ、あの場所に戻るのが嫌だった。
私は自由になる、それであの人と一緒になって、幸せに――――
後ろから迫るいくつもの足音。提灯の灯り。怒声。
恐怖が無数の槍のように追い立ててきた。
ああどうしよう、捕まってしまう。
どうして誰も助けてくれないのだ。
あの人は?もしや、捕まってしまったのか。
「もうだめかと思った瞬間、無我夢中で川に飛び込んだんだ」
深くて流れの速い川だった。水に揉まれ、夜陰にまぎれて流され、追手から逃れることはできた。
やがて町からもだいぶ遠ざかった川岸になんとか打ち上げられ、咳き込み水を吐きながら苦しんでいるところに、一緒になろうと誘ってくれた男が現れた。
『ああ、無事だったのね。良かった……』
自分のことも(かんが)みずに琴吹は男の無事を喜んだ。
男はうずくまる彼女に歩み寄り―――― 一笑した。
『ひでぇ格好』
くつくつという笑い声が夜闇にこだまして、琴吹は一瞬、全ての思考を忘れて彼を見上げた。
『え……?』
『よく逃げられたなぁ。川に飛び込むとは、随分大胆なことをするもんだ。
中々楽しい見世物だったぜ』
いつも目にする彼の気弱そうな表情とはまるで違って、別人のようだった。
男は手を伸ばして琴吹を川原に押し倒す。
『や、やだ……ねぇ、どうしたのさ。冗談はよしてよ……!』
『は?……お前こそ、冗談はやめろ。ただの女郎のくせに、男に抵抗してんじゃねぇよ。』
愉快げに嘲笑う、今までの彼からは想像もつかない声音。
琴吹の瞳が凍りついた。今まで見せられてきた彼の優しい仮面の数々が頭の中に蘇って、現実を受け入れるのを拒絶した。
何かの間違い。これは自分をからかっているだけで、すぐにいつもの彼に戻るはずだ。
しかし同時に、正反対の考えが膨れ上がって残酷に突き付けられる。
彼が裏切った。店に自分が逃亡することを知らせた。逃げまどう自分を見て楽しんでいた。
最初からそれが目的で、自分に近づいていた。
琴吹が心から彼を慕っていた時、彼は笑いをこらえていたのだ。
それからの記憶は途絶えた。気付いたら、散々弄ばれた挙げ句に川原の草むらへ打ち捨てられていた。店から持ってきた稼ぎの金はそっくり盗られていた。
「しばらくぼうっとしてて、だんだん状況を理解し始めて、大泣きしたよ。
彼の事も、自分の浅はかさも、許せなかった」
「……大変だったんですね」
「まぁね。で、心機一転して復讐の鬼になった私は猛特訓を重ね、一番最初にあの男を仕留めてやったのさ」
いたずらっぽい口調で軽く締めくくる。
「結果的に、自由にはなれたわけだし。それからはあちこちを転々として、無頼どもを腕っ節で従えたりしながら何となく暮らしてきたんだ」
「はあ。では、なぜ私たちの旅についてきたのですか」
「それも何となく。あんな地下の隠れ家に暮らしてたって、女郎屋と変わらないかなと思ってさ。一緒に行けば新しい世界が見れるかもしれないってね」
言い終わると、琴吹はこほこほと咳をして寝返りを打った。
「まぁ、人助けの真似事をしてみたかったってのもある。
あんたたち、話に聞くほど悪い人じゃなさそうだったから」
秋雪は微笑んで、煎じ終えた薬を器に入れて彼女に渡す。
「飲んでください。あと、粉薬もありますから、食後に服用してくださいね」
琴吹が起き上がって素直に器を受け取り、口に含む。
「にっがあぁぁ」
「そういうものです」
「こりゃあ早く治さなくちゃ。こんなの何度も飲んだら舌がおかしくなるよ」
「そうですよ。また隼人が心配しますから、早く良くなって下さい」
嘆息気味に言う秋雪に琴吹が肩を揺らす。
「私よりも兄さんの方が心配なんだね」
「長い付き合いですから。私や煉にとっては弟のようなものなのです」
秋雪の顔に苦笑が滲む。
「できることなら、もう辛い目に遭わせたくはない。どこかで静かに暮らしていければと思うのですけど」
追捕の手は後を絶たない。役人に、懸賞金目当ての者たち。心の休まる時が無い。
「ねぇ、私の過去を聞かせてあげたんだから、今度はそっちのを聞かせてよ」
「風邪が治ったら、いずれ」
これ以上いるとうつりますから、と言って秋雪は道具箱を携えて立ち上がる。
少しむくれながらも琴吹は大人しく布団に潜り込んだ。

夕餉の準備が整ったと伝えられ、琴吹を除く一行は庫裏へ向かった。
大部屋の一角に膳が用意され、彼らは久方ぶりに料理と呼べるものを口にした。
精進料理で決して量も多くはなかったが、体中に沁み渡るようだった。
「うめえっ」
「おう、胃が喜んでらぁ」
玄次郎と嵩重(たかしげ)は夢中で料理を掻き込んでいる。
「おいしいっ」
小太郎も嬉しそうに次々と箸を進めるのを見て微笑みながら、隼人は問うた。
「琴吹は?まだ寝てるのか」
秋雪が答える。
「調子が悪いから夕餉はいらないと。やはり風邪のようで、咳やくしゃみが酷くなってます。薬は渡しておきました」
「薬を飲むにも、何か食べねぇとだめだろう」
「小僧さんに粥を作ってもらえるよう頼みましたよ」
それを聞いて隼人は安心した風情で米を口に運んだ。
山道を歩いていた時から風邪の気配はあったのだ。こんな状況ではあるが、屋根のあるところで養生できるのはむしろ幸運だろう。
出立までに治ると良いのだが。
煉が口を開く。
「念のため、俺と嵩重で例の川というのを見てきた。まあ、弘徳和尚の言ってた通りの有様だったな」
「あれはとても渡れませんねぇ」
水位が上がって鉄砲水のように流れが速かった。以前のように大木で橋を作って、というわけにもいかない。
「待つしか無いな、どうしようもねぇ」
「どうせここにじっとしてなきゃならねぇんなら、あっしらも存分に骨休めしていきましょう」
あえて楽観的に言う嵩重に一行が同意を示した時、3人の小僧が盆に湯呑みを載せてやってきた。
「お茶をどうぞ」
「ああ、ありがとな。料理、美味かったよ」
隼人に褒められて満更でもなさそうな小僧は、やや紅潮した笑顔で湯呑みを渡した。
この寺にいる小僧は全員合わせても五名。一行とは違う卓で食事をとっている。
年齢はというとおよそ十歳前後で、まだまだあどけない。
「お前たちは、麓の村の子供か?」
煉の問いに小僧たちは首を振る。
「いいえ、僕たちはみんな孤児なのです。弘徳さまが拾ってくださったのです」
「でも、ここにいれば寂しくありません。弘徳さまは読み書きを教えてくださるし、野菜の育て方もそろばんの仕方も教えてくださいます」
そうやって一人で生きていく術を身につけ、大きくなったら独り立ちするのだという。
「ここに残る子はいないのかい?」
秋雪が首を傾けると、小僧は困ったような顔をした。
「僕はそうしたいのですけれど、弘徳さまはあまり喜ばないのです。
ここは人も滅多に来ないし、ちょっと雨が降っただけで川も溢れて危険だからと」
僧侶を目指すなら違うところで修行しなさいと、そう言われるらしい。
弘徳もすでに高齢だ。色々と思うところがあるのだろう。
「あの川は、渡れるまでに何日くらいかかるものなんだ」
「五日ほどです」
小僧の答えに煉が深いため息をついた。お茶を喉に流し込んでなんとか気を取り直す。
小僧がなだめるように笑んだ。
「こんなこともあろうかと、普段から食糧は大目に貯蔵しておりますから、ご心配なく。
他に必要なものがあったら仰ってください」
「ありがとう」
秋雪が礼を言うと小僧たちは自分たちの卓へ引き返していった。
「煉、あんな年端も行かない子どもになだめられてたら世話ないな」
言われた煉は笑いをこらえる隼人をじとりと睨むが、どうなるものでもない。
「むこうも足止めを食ってる事を祈るしかねぇか……」
耳を澄ませてみれば、未だにしとしとと雨の音が木霊していた。

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